西国街道は、古代から大和の国と九州大宰府までを大路(たいろ)といわれ、主要道路として重要な役割を果たしてきました。
江戸時代、この街道を東から西に進めば、大野村鳴川から玖波村に入り、馬だめし峠を越えて玖波駅に着き、海岸沿いに黒川村、小方村を通って、再び山に向かって苦の坂を登り、ちきり神社の側から木野川沿いに下って、安芸・周防の国境となる「木野川渡し」に着きます。
渡し場付近は、舟渡しのところで川幅12間(約22m)、水深4尺5寸(約1m40cm)、徒歩渡りのところで川幅12間(約22m)、水深2尺2寸(約70cm)であったそうです。
「木野川渡し」は、交通も頻繁で、渡し守は木野・小瀬両村から2人1組で昼夜交代で行い、その費用は安芸・周防両国で負担しました。
文政2年(1819年)広島藩に書き出した「国郡誌」には、「武士は無料、その他の者は2文、牛馬は4文」であったと記されています。
旅人の多くは2文の舟賃を節約するために、徒渡し(かちわたし)の場所を歩いて渡ったといいます。
この渡し場を渡れば周防国小瀬村であり、そのまま西に進むと関戸に行きます。
今も昔の姿をとどめており、昭和58年11月に大竹市指定の「史跡」に指定されています。