町村制の施行
明治21年(1891年)4月17日、町村制の公布によって、地方制度は新しい段階を迎えました。
この制度は、まだ住民の選挙資格や町村の財政力を制限し、町村行政を府県の監督下におこうとするものでしたが、町村会の権限の大幅な拡大や町村長の公選などが明記され、地方自治への大きな前進であったことは間違いありません。
また、これにより、大規模な町村合併が行われ、広島県では「およそ300戸以上をもって一町村」が基準とされました。
佐伯郡でも合併により85か村が41か村になりました。大竹市域でも大竹村と小島新開が合併して「大竹村」に、小方村・黒川村が合併して「小方村」に、大栗林村・小栗林村・後原村・奥谷尻村・谷和村が「栗谷村」に、松ケ原村は峠村・渡瀬村とともに、三和村に統合され、旧村名は大字名として残されることになりました。
また、木野村・油見村も規模からいえば当然合併の対象でしたが、両村とも住民が合併を嫌がったため、一村として存続することになりました。ただし、油見村は大竹村と村組合を設置し、「大竹・油見組合村」として議会を設置しました。
明治22年(1892年)4月に町村制が施行され、村会議員の選挙が行われました。
当時の村会議員は任期6年で、無給の名誉職でした。また、村長はその村の満30歳以上の選挙権を有する者の中から議会議員によって選ばれ、県知事の認可を必要としました。議員によって選ばれるため、執行機関の長だけでなく、村議会の議長としての権限も持っていました。
こうして新しい村では吏員(職員)が選任され、新しい村行政が展開されましたが、当初村役場の主な事務は「庶務」・「議事」「戸籍」・「社事」・「学事」・「衛生」・「勧業」・「土木」・「兵事」・「収税」・「会計」などでした。これらの事務は村の発展とともに複雑化し、職員の待遇もしだいに改善されていきました。
また、当初、村の運営でもっとも問題にされたのは、共有財産の処分と旧村の負債の償還でした。特に負債については、明治25年(1895年)時点の小方村の負債は3,501円18銭4厘で当時の予算の3倍もあり、共有山の売却や村税・区税で償還しようとしましたが、完済は容易ではありませんでした。三和村では、明治28年(1898年)に負債の償還の取扱いを巡って村内が対立し、松ケ原の離村問題にまで発展しましたが、関係者の努力により離村は免れました。
そして、大竹村は、和紙産業を中心として商業が発展し、佐伯郡内屈指の村として成長し、明治43年(1913年)に「大竹町」として発足しました。大竹町制の施行は、佐伯郡内で6番目で、当時の人口は6,552人(1,105世帯)でした。
それから、大正13年(1924年)6月1日には玖波村に町制が施行され「玖波町」になりました。
大倉組山陽製鉄所の誘致
明治後期から大正にかけての経済状況は、全国的に不況であり、大竹市域でも金融機関が預金の支払停止を発表し、玖波町・栗谷村では公金が取り引きできなくなるなどの事件もありましたが、第一次世界大戦によって経済は好転し、大竹市域にも大企業が進出することになりました。
大正5年(1916年)4月に、小方村の烏帽子新開に大倉組山陽製鉄所が建設されることが決定されました。
候補地は他に9か所ありましたが、呉海軍工廠との地理的関係もあり、小方に決まったようです。
小方村や大竹町・油見村組合では、敷地の買収のあっ旋に乗り出すなど、建設促進に力を注ぎ、土地買収費の一部を助成するなど建設に協力しました。
工場建設にあたっては、用地の埋め立てには小方町包石と鞍掛山一帯の土が使われ、大竹駅から工場まで鉄道を敷設し、木野川からの取水も計画されました。
大倉組山陽製鉄所は、大倉財閥が海軍用製鉄所として計画したもので、総用地21万2千坪で、常時250人を雇用し、製造能力は年6,000~7,000トンと大規模なものでした。
ここで生産された銑鉄の大部分は、川崎製鋼や呉海軍工廠に送られ、おもに軍艦用の鋼板や砲身の材料に使用されました。
しかし、第一次世界大戦が終わり、大正9年(1920年)にワシントン軍縮条約が締結されると、艦船の建造が中止され、鉄鋼製品の需要が大きく減少することになりました。
この工場の銑鉄を原料とする鋼鉄を主要材料として川埼造船で建造されつつあった戦艦も廃艦となり、銑鉄が出荷できなくなりました。加えて、経営不振に陥った川崎造船は、これまで引き受けた山陽製鉄所の銑鉄1,000万円分について、規格に合わないという理由で返還を迫ってきました。山陽製鉄所は、これを裁判に持ち込みましたが、ついに大正11年(1922年)に工場は閉鎖されました。
なお、裁判は、大正12年(1923年)に決着し、大倉組山陽製鉄所が勝訴しました。
また、閉鎖後は、その施設はそのまま残され、主要な従業員は満州の奉天省渓湖製鉄所に吸収されました。