新町新開

新町川の河口の干潟を干拓して、嘉永5年(1852年)に開かれた新開です。
この新開開発は、天保3年(1832年)、庄屋和田吉左衛門名で村方役所に「新町沖築調願」を出して許可をもらいましたが、村で資金の調達ができず工事ができませんでした。

そして、弘化2年(1845年)、再度、村方役所に願い出ます。
「小方村新町沖新開築調願添書」によれば、「小方村、元来田畑少なく、人多く作地不足。百姓は外商売し、難渋し、既に天保七年は飢渇(きかつ)のもの多く…(中略)…当(弘化2年)八月六日夜の洪水に付、人家は勿論田畑等押し流され…難渋目も当てられぬ儀…。この度の洪水により新町沖潟への土砂流込、地面も高く相成、新開築調には究意の場所に相成候…。新町沖へ新開築調御免許宜敷(よろしく)…(中略)」とあります。
また、弘化3年(1846年)の見積帳によれば、小方村舛形石垣鼻より包石まで、高さ3間・長さ543間の石垣と腰石垣を廻すために、シダ16,308抱(当時、軟弱地盤の上に石垣を築く際にシダと石を交互に重ねて地盤を強化していた)が必要となり、土手(堤防)には、土砂5,390立方坪(2トンダンプで6,800台分)、石樋2ヶ所などで、費用は銀76貫962匁が必要と見積っています。

工事は弘化4年(1847年)8月に始まり、嘉永4年(1851年)に総面積15町1反1畝の新開が完成しました。翌弘化5年(1848年)4月竿入がされ、総費用は2,072両と銀5匁4分、外に嘉永元年(1848年)の台風による被害に米300石を借入れていました。

総面積の内、耕地は約12町歩で、土地ができても当分の間は塩分が多くて作付ができず、万延元年(1860年)に7町歩ほど作配、畑作付が始まりました。
費用は、村請(村が借金して工面)となっていますが、実状は庄屋の和田氏が自分の財産をつぎこみ、不足は給主の上田氏から借りて補いました。和田氏が借金を返し終わったのは明治の中ごろといわれています。