立戸大畠沖干潟を干拓して、明治元年(1868年)に開かれた新開です。
この新開は万延元年(1860年)、小方村が割庄屋の和田吉左衛門に歎願書を提出したことから、始まりました。
歎願書では、まず天保の飢饉や弘化2年(1845年)の風水害と災害が続いたため、村人の困窮を訴えており、その対策として、大畠沖は広大な干潟に付き、新開を開けば莫大な耕地ができ、貧窮の村の百姓及び土地を持たない村人も農業ができ、一同安穏に粥をすすることができるとしています。
この願いが聞き入れられ、文久2年(1862年)、給主の上田氏の許可が得られます。このときの見積りによれば、飛石の窪(くぼ)から小島新開北の角へ長さ915間の堤を取り付け、両面に石垣を築き、外には腰石築添、唐樋2ヶ所・埋樋1ヶ所を設けることとし、その費用として銀393貫514匁かかり、約60町歩の耕地が見込まれるとあります。
また、「着工につき指図を願い出る書」によれば、
一、石樋の台木は、肥松で、長さ七間・廻り八尺を四本、お城山から切り出す。
一、石取場は、阿多田・亥の子・可部島・大野四十八坂の下を指定。
一、土取場は、小方町人家下から新町川裾、ならびに小島新開沖手の海砂を取るよう指定している。
資金は、「給主取替金と人別(二階堂三郎左衛門外47名)出資金をもって当てる」とあります。
普請は、元治元年(1864年)、頭庄屋の和田吉左衛門を普請方・諸用頭取に任命して始まります。2年を経た慶応年(1866年)に工事の半分が終わり、潮留めも予定されることになっていました。しかし、この年に長州戦争が始まり、工事は一時中止されました。
翌慶応3年、給主は、戦争による罹災村人の救済事業の一環として新開事業を再開することにしました。明治元年(1868年)に潮留めが行なわれ、主要部分が完成しました。
潮留めまでに費やした資金は、給主の上田氏が18,000両、人別出資金が8,000両と、これからの残工事(大土手のかさ上げ、腰石垣、その他)が10,000両必要と見積られ、総費用は約36,000両となりました。
畝割りは耕地46町歩を1,000枚に割り(1枚4畝16歩)、その3分の1を出資者に、さらに3分の1を小方村配分用とし、残る3分の1を罹災者救済用として配分するよう小方村が請願しました。しかし、配分の具体的指示がなく、小方村の配分を危惧した村民は動揺し、村内騒動が起きました。翌明治2年(1869年)にようやく具体的指示があり、小方村に人別出資者への帰属分も含め604枚が引き渡され、大竹村に120枚、油見村に30枚が売却されました。
3月、村方役所より新開の地形が烏帽子に似ていることから「大畠沖新開を烏帽子新開と唱えることの触書」が出されます。
そして、明治5年(1872年)、夏の暴風により堤防が決壊します。
小方村ではその復旧に奔走しましたが、藩や給主の援助が得られず、自費で再興を計り、明治6年(1873年)に米880石の借入れをして復旧しました。このとき、耕地が3町6反余り増え、1,079枚に分割されました。
ところが、翌明治7年(1874年)には再び暴風雨により堤防が決壊して、村民の苦労は水泡に帰してしまいます。村民は三度その復旧に奔走し、ようやく完成をみましたが、貧しい耕作者は度重なる出費で費用の年賦が払えず、土地を手放して小作人になっていきました。その結果、数人の大地主が生まれることになりました。
度重なる台風被害で元治元年(1864年)の着工から十年にわたる事業であったため、要した費用は予想外の多額になり、明治17年(1884年)になっても、小方村の負債残高は38,240円ありました。その負債は耕作者の重い負担となりました。
この烏帽子新開をはじめ、立戸の新開は水源がなく、水不足から畑作が中心となり、塩害にも強い綿花の栽培が盛んでした。綿花は換金作物で農家における貴重な金銭収入をなしていました。
明治11年(1881年)、小方村の綿花生産は約2,500貫ありました。
昭和3年(1928年)に木野川分水が通じたことで灌漑用水路が整備され、立戸新開・烏帽子新開で稲作ができるようになりました。