大竹村と和木村の磯争いは、慶長期以来、しばしば繰り返されました。
国郡誌には、「古来、大竹村は海に面して山がなく、和木村は海がなく山を有す。したがって、両村はともになきところを補いあった」とあり、もともと大竹磯は、大竹村・和木村・関が浜村などの諸村の入会地として利用されていました。
ところが、慶長16年(1611年)、大竹村の村民は、関が浜村と和木村の山に入ることを差し止められましたため、大竹村は、その報復に和木村と関が浜村の村民が大竹磯に入ることを妨害するようになりました。
明暦元年(1655年)からは大竹村民は和木村、関が浜村の山に入ることを止めると同時に、両村が磯に入ることを差し止めました。また、万治元年(1658年)からは従来川下で行っていた和木村の海苔採りも禁止しました。
その後、和木村では、大竹村民の和木村入山を許すことを条件に、再び大竹磯を入会とするよう話がまとまりかけましたが、双方の主張が折り合わず、大竹村によって否定されました。
こうして大竹村と和木村の間に不穏な空気が流れるようになり、寛文2年(1662年)6月8日、ついに事件が起こります。大竹村民に貝取りを差し止められたのに立腹した和木村民は、大勢で磯に入り込み、大竹村民に危害を加え、村民一名が死亡してしまいました。
それから大竹村民は、毎日磯番として37人を配置して和木村民が磯に入ることを警戒していましたが、6月25日には、またも和木村民が大挙して大竹村民に襲いかかり、大乱闘になりました。
その後も元禄、寛政年間にも論争が続き、このような乱闘が何度も起こりました。