小方村と谷和村の山論

小方村飯谷と谷和村の山論は、大きなものだけでも、万治2年~3年(1659年~1660年)、寛文2年(1662年)、明和9年(1772年)と三回ありました。

万治2年(1659年)の争いは、飯谷の農民が飯谷の後山にある楮山の立木をとり置いていたものを、谷和村の農民が取ったことに始まります。
飯谷の農民はその仕返しに、谷和村の炭焼釜三ヶ所を打ち壊しました。すると今度は谷和の農民が、飯谷の農民がとり置いていた薪200束を鍛冶炭に焼いてしまいます。飯谷の人たちは抗議しましたが、谷和村は「庄屋の指示にしたがって行なったもの」と答えたため、怒った飯谷の人たちは、谷和村の農民が山に置いていた薪を全部焼き捨ててしまいます。
そして、ついには飯谷の農民7人が谷和村の農民43人に襲われるという事件が起こりました。
小方村は直ちに代官に通報しました。この争いにおける小方村の主張は「楮山は福島正則の時代から山銀200目を上納してきた山で、小方村に属する」というものでした。一方、谷和村も「同所は自村の範囲内にある」と譲らず、境界は確定しませんでした。

寛文2年(1662年)、再び論争が起きます。このときは、藩が境界の決定に乗り出してきました。
奉行である林三郎右衛門は代官2名を連れて、谷和・小方の庄屋と飯谷の与(くみ)頭(がしら)、大栗林の庄屋が立ち会いのもと、調停を行いました。
「下杭(しもくい)は衛門の釜石、楮山は上河子石、下河子石、横滝をもって限る」というもので、極めて不明確なものでした。

そのため、明和9年(1772年)に、三度目の大きな争いが起き、その後も何度も論争を繰り返すことになりまいた。
また、小方村は、大栗林村とも境を接していて、明治17年(1884年)、小方村ヌクイガ浴山と大栗林村横滝に係る境界不明の場所を両村が協議し、解決に至りました。