松ケ原村と大野村の山論は、明治13年(1880年)11月に大野村戸長代理と山総代ら9人が突然松ケ原村を訪れ、河平山と横撫山は大野村の所有であるという保証印を要求したことから始まります。
松ケ原村は河平山と横撫山は両村の共有山であるとしてこれを断りましたが、その後、明治15年(1882年)9月、河平・横撫山に入山していた松ケ原村民に対し、多数の大野村民が暴行を加え、捕まえるという事件が起きました。
松ケ原村はすぐにこのことを佐伯郡長に上申し、これらの山が共有山であることを主張するとともに、渡ノ瀬村と共同で「これまでの慣行に従い、これらの山への入山を認めること」と「松ケ原村と渡ノ瀬村を大野村に合併すること」を県令に請願しました。
これに対し、県令は「山の地籍と所有・使用権は自ずから異なるものである。そのため、証拠があればそれをもって大野村と協議すべきであり、合併の件については検討できない。また、紛争に関しては裁判することが妥当である」と回答しました。
そのため、松ケ原村はそれに従ってすぐに大野村と協議しましたが、解決できず、明治16年(1883年)2月に広島始審裁判所に提訴しました。
この裁判における松ケ原村の主張は、「大野村の河平山と横撫山については、松ケ原村はかつて小物成銀(租税)を納めており、大野村と同じ入会慣行をもっていた。また、広原山、ヌメリ谷の二本杉山、谷尻山についても入山銀70目を大野村に納めており、大野村と同じく入会慣行をもっていたことは公然の事実である。したがって、大野村が一方的に入山を差し止めることは不法である」というものでした。
一方、大野村は、「松ケ原村は河平山、横撫山にかかる山銀の納入を怠り、山林の所有者と主張して勝手に田畑を開き、地主である大野村と争いを起こしているのは賃借人の義務に違反している。大野村は松ケ原村の使用権をはく奪する権利を有している。また、広原山、ヌメリ谷の二本杉山、谷尻山についても、かつては入山銀が納められていたが、近年は履行されていないので当然松ケ原村の入会権は失われる」と主張した。
そして、明治16年(1883年)4月に裁判所の決定が下されます。裁判所は、「これらの山は元々公有山であり、地租改正の結果として民有地として大野村地籍に編入されたものである。しかし、その利用については、入会慣行がある限り、松ケ原村も大野村と同様の権利を有しており、大野村が一方的に松ケ原村の入山を差し止めたのは不法である」として、松ケ原村の主張を全面的に認めました。
これを不服とした大野村は広島控訴裁判所に提訴しましたが、再び敗訴に終わりました。
こうして明治17年(1884年)5月、大野村から和解案が出て、「野山である東山と中クラ山の西こやの谷口道から沖高場辺までを松ケ原村が購入すること」、「河平山と横撫山は松ケ原村との共有地として地券の書き換えを行うこと」などの協定を結び、この山論は終結しました。