大竹・油見の背後の山を大河原山(おおごうらやま)と呼ばれています。
海抜200mの山頂は、長さ約900m、幅100mの平地になっていて、古くから耕作が行なわれていました。
この大河原山の耕地を巡って、大竹村の小田頼七たち22人の耕作者と小方村の土地所有権の争いがありました。
明治13年(1880年)1月、小方村戸長役場が大竹村耕作人に小作料の納入を促したことが争いの発端となります。
耕作人は小方村の度重なる督促にもかかわらず拒否し続けたので、小方村は土地処分の通告を行います。
耕作人はその不当を主張して郡長に対し耕作人の所有権確認の申請をしましたが、解決の見込みがたたないため、翌明治14年(1881年)4月に勧解裁判所へ、同年7月に広島始審裁判所へ提訴しました。
裁判において、小方村は「この地は、慶長6年(1602年)の検地帳によると、小方村の二郎介他14人の所有になっており、それが村請地(村全体の責任で年貢を支払う土地)になったもので、大竹村からの要請でその土地を貸し与え、10石9斗4合の小作料を受け、年貢米並びに免割(年貢以外の村の諸負担を農民一人ひとりの持高に応じて割り当てること)等は土地所有者である小方村が負担してきた。」と主張しました。
これに対して小方村は「壬申(じんしん)地券下付にあたって、この土地が大竹村の小作人名儀になったのは、当時共有地が官有になるとの風評があったので便宜的に彼らの名前を借りただけである」と主張しました。
そして、明治15年(1882年)、裁判所の判決が出ます。
判決は、「大河原の耕地がかつて無主かつぎ地であり、これを耕作させていたことは、小方村にこの地を維持する力がなかったことを意味する。また、これまで大竹村の耕作人が年貢や地租改正費用も地主として負担していたことは、その地が事実上彼らの所有を示すものである」というもので、大竹村耕作人の主張を全面的に認めたものでした。
これを不服とした小方村は直ちに広島控訴裁判所へ控訴しました。しかし、同裁判所も始審裁判所と同様の判決を下し、同年12月に大審院への上告も棄却されたことによって小方村の完敗に終わりました。
そこで、明治19年(1886年)5月、小方・大竹両村が協議して土地の分合を行なうことになり、大竹村耕作人の所有地に帰した耕地5町9反3畝16歩は大竹村に移管され、大河原の荒地・山林・溜池等も大竹村へ売却して、この紛争は終結しました。
敗訴した小方村は1,608円にのぼる訴訟費用の支出を余儀なくされ、村は阿多田島、亥の子島、可部島の共有地を売却してなんとか支払いました。