「川手」の歴史

年代ははっきりしませんが、小方町が大竹市に合併する前、小瀬川沿いに点在する防鹿・穂仁原・比作・安条・八丁・前飯谷・後飯谷の各集落は「川手町」として一町独立しようという運動がありました。
この一町独立は実現しませんでしたが,それ以来、この地域を総称して「川手」という呼び名が今でも使われています。
この川手にいつ頃から人が住みつき、どのように開拓されてきたのか地元に語り継がれてきた言い伝えがあります。

 

平家ゆかりの人々による説

安条の小瀬川の対岸、現在の岩国市小瀬小川津より約6kmの谷を遡ると「樋の口」の次に「五人代」という、現在数軒の集落があり、また、五人代から北に山を一つ越えたところに持ヶ峠(餅ヶ峠とも書く)という集落があります。
五人代や持ヶ峠は、源平合戦における屋島の戦い(1184年)に敗れた平家ゆかりの人々が隠れ住んだ場所といわれています。
五人代に残された古鏡や持ヶ峠に伝承されている言葉使いから、この地に逃れてきたのは、平家の武者だけでなく、戦に随行した殿上人もいたのではないかと推測されます。

川手地区の古老の話によりますと、「五人代から五人が安住の地を求めて、前飯谷・穂仁原、谷和、三ツ石などの各集落へ移り住んだ。このうち鬼のような人(鬼のように力強い人、あるいは悪い人だったかもしれない)が住みついたところを鬼原と名付けた」といいます。

また、「百年のあゆみ 穂仁原・飯谷小学校」には、「万治2年(1659年)に穂仁原の神社が全焼し、再建された記録があるが、集落そのものの成立した時期は不明。また、安政の頃(1854年~1859年)には鬼原が穂仁原になり、当時の民家は8軒、主家(本家)は代々正木太郎左衛門を名乗っていたが、初め姓は政木であった」との記述あります。「この主家は川手では一番古く、附近七郷(防鹿から後飯谷までの七集落)のリーダー的存在であったようだ」と述べられいます。

さらに、前飯谷の河内神社の棟札には「弘長二年(1262年)九月五日正木壱岐守審太夫」とあり、鎌倉時代の頃から正木氏一族が関係したことが分かります。

 

伊豫松前(いよまさき)ら平家落武者説

川手地区の古老からは、次のような伝説も紹介されました。
屋島の戦いに敗れた平家の武将の松前(まさき)進五左衛門は、身上を隠すため名前を正木と変え、進五左衛門ら七人の兄弟が小瀬川へ逃げ込みました。
七人は奥へ奥へと進み、飯谷川の川口で箸(杓子)が流れてきたのを見て川を遡り、長男の進五左衛門が前飯谷に残り、他は栗谷を初め、持ヶ峠・釜ヶ原、三ツ石などへそれぞれ住みついたそうです。

それから何年か後、源氏の武士が5人連れ進五左衛門らを捜しにきました。
進五左衛門はいち早く奥の間に隠れ、賢い妻女は主人は留守といって座敷に招じ、膳を一列に並べ酒肴でもてなしました。頃合いを見て進五左衛門は、奥の間から満身の力を込めて弓を引き、5人を一矢で射止めました。
進五左衛門とこの5人の墓石は共に現在も残っています。
このうち進五左衛門の墓石は、現在の「自然の家やさか」の裏手から後飯谷に通じる山林にひっそりと祀られています。

進五左衛門の墓
        進五左衛門の墓

墓石は高さ1m余、幅50cm、厚さ30cmの大石で、進五左衛門の妻女が担ぎあげたと伝えられています。
5人の墓はここからさらに数百メートル西側の山中にあるといいます。

一方、これらについて大正7年(1918年)の佐伯郡記には次のように記載されています。
「正木進五左衛門及び河野與三右門は住古共に伊豫より渡来し、村内飯谷を開拓せし人にして両氏共墓石を存す」
また、後飯谷では長瀬という所に、江戸末期から明治にかけ、当地の中心的な存在であった「正木庄屋」の屋敷跡があり、多くの住民がこの庄屋の采配で働いていたといいます。

このように後飯谷には正木姓で活躍した人が多かったですが、現在では見当たりません。一方、小瀬川にちなんだ川本・川岡・川野など「川」の姓のつく家が多いです。
また、後飯谷の発展に関係する記述が「大竹市後飯谷客神社御鎮座千年記念誌」にあります。
「長保元年(999年)藤右衛門という人によって客神社が久保の岡(山の頂上付近)に勧請された」ことが記録に残っています。
これによると、源平合戦に敗れた平家の落人も住みついたと考えられますが、それ以前にかなりの開拓者がいたことになります。
なお、平成11年(1999年)秋には、客神社の鎮座千年祭が盛大に挙行されています。

 

正木城内紛による避難者説

「元享~正中年間(1321年~1325年)、四国伊豫の正木城(現 愛媛県伊予郡松前(まさき)町)における内紛により、正木雅樂英昌がその地を追われ、行動を共にする武士や医師、職人などと大竹の入江に入ったとの言い伝えもあります。

小瀬川を遡り、巻尾の浜(現在の弥栄ダム堰堤の所)で舟を下り、それから徒歩で安住の地を目指していたところ、谷間を流れる川に一本の箸が流れてくるのを見つけて、人里を感じ、この地を「飯谷」(現在の前飯谷か)と呼ぶようになったと伝えられています。
かくして小栗林には正木雅樂英昌・三井佐渡義寛らが、また、谷和には藤井與十郎・種守藤左衛門が定住しました。
彼らは各所に家臣を配置し、追手に対する構えを怠らず、開墾を始めたといわれています。前飯谷・後飯谷にも、これらグループの一員が住みついたと思われます。
このことは佐伯郡記にも「伊豫の浪人正木英昌・三井義寛というもの始めて来たり、猟をなし、地を開きしが後一村をなせり」とあります。

 

このような言い伝えの真偽は定かではありません。
大竹市史では現存の資料から「当時の小方村の人により、開拓されたので、川手各集落はそのまま小方村の一部として発展したのでは」としています。
いずれにしても、耕す地も少ない山中であらゆる困難を乗り越え、今日の美しい郷土を伝えてくれた祖先に感謝するとともに、郷土の保存に努め、次世代に引き継いでいく必要があります。

 

川手地域の史跡・文化財