日本における人々の行き交う交通網は、飛鳥時代から九州大宰府を拠点に交易、戦時などのため整備されていたようである。その後、西暦645年大化の改新以後、律令国家成立の課程でなお一層整備され、8世紀700年代には完備されたと言われています。
玖波は中世から主要な港町として整備され、現在の廿日市市の玖島や浅原、河津原あたりとの物資の往来が、玖波谷を経由して行われてきました。
近世江戸時代に入り、山陽道は、公家・幕府の要人・勉学のための人々たちが、西国に向かう道として「西国街道」と呼ばれるようになり、各藩が整備に乗り出しました。
その一つとして、次のようなエピソードが残っています。
関が原の合戦以後、外様大名の西国への領地替えにより、三代将軍徳川家光の時代、豊臣恩顧の大名たちへの厳しい処遇がありました。福島正則も芸備49万8千石から信州川中島4万5千石への改易から始まり、最後が肥後熊本城の城主加藤忠広の改易でした。この城の引渡しの確認のため、寛永9年(1632年)に江戸から幕府の上使として内藤左馬助政長一行が海路熊本入りしました。任務を終え、帰路は西国街道を東へ向かうとあって、広島浅野藩では、家老上田主水正重安(宗箇)が、玖波村の庄屋平田氏の居宅に1軒増築して迎えました。そして、西国街道藩内の整備にも急ぎ着手し、広島城下を基点に、西は元安橋から芸防国境“木野川渡し”(現在の小瀬川)まで、街道には松を植え、一里ごとに塚を立て休息の場を作りました。こうして幕臣一行の藩内入りに間に合わせ、翌寛永10年には幕府の見回り役である巡見使を迎え、2軒増築するなど、幕府には大きく気を使ったことが伺えます。同時に「本陣」も一段と増築されていきました。
江戸時代には、参勤交代の令が引かれ、山陽・九州路の往来も盛んになり、京都九条通りを発し、西宮に出て山陽道を西に向かい32番目の宿場として、江戸時代を通じて玖波宿は栄えました。
しかし、その裏には村人の大変な苦労もありました。江戸後期、文政2年(1819年)の国郡誌には、玖波には民家370軒のうち85軒は大名方の宿泊所に使われ、40軒は大名通過時に雇われ、35軒は役務に従事し、その他にも人や馬がひしめき合い、収容できない場合は、小方村を脇本陣として使われ、そのために駆り出された人々は釜や鍋を持ち寄り大変であったと伝えられています。
また、広島藩に提出した文化3年(1806年)佐伯郡廿十ヶ村郷邑記には、玖波村の地域気質として、「才智之者多し、丁寧…」という、穏やかな気風を持っていると記されています。
静かな宿場も、幕末慶応2年(1866年)の長州の役では、幕長の戦いの場となり、敗走した幕府軍も、どさくさにまぎれ宿賃未払いが出るなど大変な迷惑となりました。加えて長州軍による村のほとんどを焼き払われるという災難に見舞われています。
玖波の町並みが、江戸時代の面影を残しているのは、山間部との“玖波谷”の交流と、明治18年のハワイ王国との移民条約により広島県人も多く渡り、他県とは異なり、陰日向なく勤勉という働きぶりから評判となり、広島県は移民県といわれるようになりました。こうして玖波村も海外移民による送金で町は蘇ったとも言われています。