江戸時代に安芸国の最後の宿場として玖波村は栄えましたが、慶応2年(1866年)6月14日、幕府軍を追撃する長州軍によって、大竹・小方・そして玖波宿のほとんどが焼き払われ、宿場の町並みはなくなりました。
しかし、明治半ばに入り、漁業の町として、また玖波谷から廿日市市(旧佐伯町)から物資の交流、また、海外移民者の支援などによって新たな町並みが蘇りました。
そのため、明治・大正期の建物建造物が今もこの町には見られます。
玖波の「卯建」の町並み
「卯建の町並み」は、現在も39軒が明治・大正期の伝統的建物として大切にされています。
建物の両側に「卯」字型に張り出し、袖壁とも言われ、装飾された卯建は少なくなりましたが、町家通りに多く見られ路地に入っても見ることができます。
起り屋根(むくりやね)
江戸時代に安芸国の最後の宿場として玖波村は栄えましたが、慶応2年(1866年)6月14日、幕府軍を追撃する長州軍によって、大竹・小方・そして玖波宿のほとんどが焼き払われ、その数は1,000軒に上り、被災者は9,000人にも達しました。
起り屋根とは、ゆるやかな弧を描いた凸型の屋根で、現在確認できているのは市域ではこの地区の2軒だけとなっています。
大変精巧な組み合わせで、現在もその曲線の美しさと重厚さは変わらず見事です。
錣屋根(しころやね)
兜の鉢の左右後方に垂れた防御用のもので、革や鉄でつづられ頸(くび)を保護するものを錣(しころ)と言います。
錣屋根は、大棟から屋根の途中で区切って段をおく形式で、兜の後ろを垂れている錣をイメージして呼ばれるようになりました。
見た目には簡単なようで、瓦を積む前に屋根を木で組むのですが、大変複雑な技法を必要とします。建ててもらう家主の銭金を惜しまないこだわりと大工さんの技術が加わらないとできません。
つし
「つし」は各地で見られますが、中二階形式で、一階に人が広く住み、二階を物置とする人々の工夫から生まれたものです。
大正期から昭和にかけて、副業として蚕を中二階で飼って、収入源としていたと言われています。