寛永10年(1636年)、参勤交代制で往来する大名行列も多くなり、玖波宿は活況を呈しました。
この頃から大名や役人が宿泊する本陣(役人がとどまっているところ)が設けられ、現在のJR山陽本線のガードに向かう四つ角の海側に、本陣「洪量館」が建てられました。
洪量館は、18畳の大広間、15の部屋からなる大規模なものでした。江戸末期の慶応2年(1866年)の長州の役で焼失し、新たな時代の到来で建て替えられることはありませんでした。
また、「洪量館」という名前は、宝暦9年(1759年)に上田氏に仕えて儒学を教えていた鳳州福山幸蔵貞儀が「洪量館記」を編さんして、この名をつけたことによると言われています。
この地は、背後に山々が連なり、前には厳島をすぐ近くに眺めることができ、その景色の美しさは早くから四方の国々に話し伝えられていました。また、ここの庭には高さ20尺(約6.1m)の古く珍しい形をした松があって、その地をはうように伸び広がった枝は実に130尺(39.4m)にもおよび、洪量館の景色に一段と趣きを添えていたと言われています。
そのため、この近くを通る幕府の役人や大名、藩の来客はいうまでもなく、文学を志している人や書画に通じている人たちがあちこちからやってきて、文を作ったり、詩を詠んだりしました。
鳳州福山幸蔵貞儀もその一人であり、彼が名づけた洪量の呼び名も、海水を満々とたたえた海の様子を表したものと言われています。