玖波六丁目の無量山称名寺は、中世末期の天文7年(1537年)建立された浄土宗の寺院です。
文政2年(1819年)の国郡志に「僧円達開祖、境内に岩窟アリ、石仏を置く」と記されています。
称名寺の山門と「打ち込み接ぎの石垣」
称名寺の石垣は、江戸時代からのものと言われています。この石の積み方は、「打ち込み接ぎ」と言って、無造作に積んでいるようで決してそうではなく、しっかりと計算された石垣で、コンクリートの2倍の強度があると言われます。
窟観音
文化3年(1806年)の佐伯郡廿ヵ村郷邑記には「当寺中ニ穴観音有リ巌ノ穴ニ安置ス…」とあり、境内にあった洞窟は、文政2年(1819年)広島藩に提出した国郡誌にもその洞窟の規模が詳細に掲載されています。
洞窟は深さ11間(19.8m)、高さ14.4m、そして道幅は5尺(1.65m)の大規模なものでしたが、江戸末期から明治にかけて、洞窟が崩落し、三十三観音石仏と不動明王などが埋没し、村の人々により掘り出され、現在地に遷されました。
そのためこれらは「窟観音」と呼ばれています。しかし、いつ洞窟が崩れたのか、どの位置にあったのかは、定かではありません。
元禄の手水鉢
称名寺庫裏の奥まった庭園にある手水鉢で、市域の石造物の中で二番目に年代の古いもので、「元禄七年(1694年)二月十五日、女中念仏講寄進」とあり、現在でいう婦人部の皆さんが寄進したものと考えられます。
旧暦2月15日は、満月の日にあたり、一日の用立てを追え、満月の日に講を開いたものと推測できる。
喚鐘(かんしょう)
この喚鐘(寺院の前廊下などにつるされている半鐘)は、法会などに用いる小さな鐘で、県内でも最も古く、太平洋戦争にも供出されなかった貴重な文化財です。
鋳物師山田冶右衛門藤原貞栄氏の最盛期のものです(天和元年(1682年)製作、口径36cm)。
墓標阿弥陀塔 (像高57cm・丸彫り・花崗岩)
この阿弥陀如来坐像は、一般信仰ではないが、六角柱の上に座る姿が大変珍しいものです。
台座の蓮華座が大きく華麗なことと、他に類を見ないガッチリと力強いのが特徴です。
三つの面に戒名があり、梵字で「阿弥陀如来」の入った一面があり、年号の古いものは、天和三年(1683年)と刻まれ、ほかに弘化三年(1846年)八月四日、および安政五年(1858年)の彫刻もあります。
残りの面には、「南無阿弥陀仏」名号が入っており、全体が重厚な感じのする供養塔(墓)です。
観音堂(石像三駆)
中央 如意輪観音像
左 馬頭観音像
境内西側には、立派な観音堂があり、この観音堂は文政2年(1819年)の広島藩への書き出し帳の中に記されているので、古くから村の人々の信仰が行われていたと思われます。
このお堂のご本尊は、聖観世音菩薩(木像)です。堂内に三駆、舟形浮き彫り石仏は、砂岩できめ細かく作り上げられ、造形的にも極めて優れたものです。
足摺地蔵
境内墓地の北側にあり、足の病によく効くと近郊からもお参りする人があるといいます。
ご利益があって念願の足が直った人は、草履を御礼に奉納して帰ることからこの祠には沢山の草履が奉納し吊られています。
隠元さんと玖波の宿
称名寺には、高僧 隠元禅師の直筆の額が掲げてあります。
横幅が一間もあるケヤキの一枚板に、流麗な文字で「圓通閣」と書かれ、周りには瑞雲が描かれています。
落款に「黄檗老僧隠元」(おうばくろうそういんげん)とあり、二個の捺印は「隠元」と本名である「隆琦」ではないかと思われます。
隠元は、中国福建省の生まれで、黄檗山(おうばくざん)で修業し、宗派の復興と発展に尽くした名僧です。
その名声は長崎にも伝わり、興福寺からの度重なる要請に応えて、承応3年(1654年)7月、隠元は63歳のときに三十数人の供を従えて来日しました。
翌年には摂津の普門寺に招かれて、隠元一行は瀬戸内海を舟で大坂に向かい、その途中で玖波に立ち寄って宿泊しました。
西国街道の玖波宿の町並みを抜けて、宿となる称名寺を訪ね、そのたたずまいや接待に満足し、謝礼にこの額を置き土産にしたものと考えられます。
揮毫の「圓通閣」とは、「仏の慈愛が満ち溢れる高殿」のことで、本堂に掲げるにふさわしい額といえます。
文字や絵は彫刻されており、従者の中に絵師や彫師がおり、その滞在も一晩だけではなかったと考えられます。
その後、隠元は将軍徳川家綱への謁見が叶い、幕府の援助もあって、寛永元年(1661年)に京都宇治に黄檗山萬福寺を創建し、日本黄檗宗を開きました。
隠元は、当初3年間の予定で来日しましたが、来日から19年後の82歳で日本で亡くなりました。