お洲掘り

宮島お洲堀り「お洲掘り」とは、宮島の厳島神社で行われる管絃祭において、管絃船が大鳥居を潜り抜け厳島神社の境内に入る通路が整えるための儀式です。

小方には、古くから「お洲掘り」の伝統が受け継がれています。

 

厳島神社の創建は、推古天皇元年(593年)と言われていますが、後に平清盛により、久安2年(1146年)~保元元年(1156年)の間に大きく庇護され、安芸守の官位を授かるとともに社殿もほぼ現在の形に整えられ、御笹ノ浦の波間に浮かぶ社殿を建て、その雄姿を瀬戸の波間に漂わせ、後に日本三景と形容され、日本一の高さを誇る朱の大鳥居も海上に浮かせ、見事な調和を見せるようになりました。

都で盛んに行われていた「管絃の遊び」を宮島に移し厳島大神を慰め奉るために行うことにした。これが、現在もなお行われる「管絃祭」の起こりと伝えられています。昔の人の美のこだわりは、自然との関わりの中で、生きるものの繊細な美への追求から組み立てられています。

管絃船の三隻の船をつなぐのは、三絃、三鼓、三管の演奏を奏でる舞台を作るためです。もしも四隻の船を寄せるとしたら大鳥居を通れないということから三隻になったと言われています。

台風の発生期を避け、もっとも干満の差の大きい旧暦6月17日、満月を少し避けたのも、廿日市市地御前を夜10時ころ発し、宮島の島が満月に近い月明りが、山の端を浮き立たせる光景を読んでの設定です。

 

そして「お洲掘り」という大切な奉仕は、管絃船が大鳥居を潜り抜け厳島神社の境内に入ってからの安全のため、なくてはならない裏方の儀式です。

お洲掘りは、旧暦の6月11日若潮の日に行われ、この日は、干潮時刻も11時50分ころ潮位90cmと最も作業に適していることから決められています。

大鳥居から御池、神社周辺の砂浜、そして水路も掘り返して管絃船の通路が整えられ、己斐から小方までの担当区域が定められている。

古くから人々の熱い信仰心が一年に一度感謝をこめての奉仕とあって、自らの舟を漕ぎ出し駆けつける光景がかつては見られました。

現在では、交通機関の発達とともに公共交通機関を利用して駆けつける地区もありますが、小方地区は立戸、三ツ石とともに厳島神社から差し向けられた船に約60名が乗り、宮島に上陸、用意された鋤や鍬そしてシャベルなど思い思いの道具をもって干潮に向かう干潟に入り、それぞれ決められている場に向かい作業に取り掛かります。小方地区はもっとも重要なところを担当するという誇りを持って、回廊周辺の清掃作業の労力奉仕を行います。

その年々により、境内の状況は異なり、きれいな塩浜の時も多くあるが、海藻が多く湾内に集まり困難を極めることもあり、また、流木などの散乱にも悩まされることもあります。

作業が終わると、本殿に集まり、家内安全、家業繁栄などの祈祷を受け、それに対し神社から授与される榊の小枝は、田の畦に立てると害虫がよらないというご利益を賜り、大切に持ち帰られます。