慶応2年(1866年)6月14日、幕府軍と長州軍は芸州口で戦闘を開始しました。
長州軍は幕府軍が民家に隠れていないか一軒一軒焼き討ちを行い、大竹・小方・玖波など市域の沿岸部は1,000軒もの民家・蔵・納屋などが焼失しました。
翌日の6月15日、広島藩では佐伯郡の代官 山田喜和馬に命じて、郡衛徒士の城六兵衛ら4人を焼き払われた町の視察のために玖波に向かわせました。
城六兵衛らは舟で玖波に向かいましたが、玖波の沖合で、長州兵に見つかりました。長州兵は、幕府軍の舟と思い、銃口を構えて一斉射撃を開始しました。城六兵衛は「芸州藩の役人じゃ、銃を収めてくだされ」と大声で叫びましたが、長州軍の銃撃は止まず、無念にも城六兵衛は胸を撃ち抜かれました。
「あっ」と叫んだのが最後で、ほとんど即死であったと言われています。
この事件に対し、長州方は謝罪し、厳神社境内に顕彰碑(木碑)が建てられました。