このお寺は、今から250年もの昔に建てられた浄土宗寺院で、正しくは「智海山辨相院西念寺」と呼びます。
『国郡誌 小方村』によると、西念寺の開祖は光明院(廿日市市宮島町)運誉上人と伝えられています。
運誉上人は寂れ果てた亀居城の城跡を見て隠居の場所にふさわしいと考え、この地に移り住み修行に励みました。その姿に感銘を受けた人々は、上人のために寺院を建立したいと考え国主の福島正則に願い出ました。
かねてより上人を尊敬していた福島正則は、元和元年(1615年)に亀居城内にあった圓通寺を移築し、新たに西念寺と名付けました。
現在、西念寺にある観世音菩薩像は、元は圓通寺の本尊だったと伝えられています。(一説には福島正則の守本尊とも伝えられています)
砲弾の傷跡
芸州口の戦いも終盤に入った頃、西念寺は長州軍の本陣となっていました。
慶応2年(1866年)8月2日昼下がり、それを察知した幕府は宮島の須屋浦から軍艦2隻と和船4隻が小方沖に近づけ、西念寺に向かって艦砲射撃を開始しました。
その一発が、本堂入り口上部の桁・梁を支える肘木をぶち貫きました。
西念寺では、今もその傷跡がそのままの状況で残されています。
寺子屋の子どもの落書き
幕末から明治初期にかけ、寺院では寺子屋が開かれ、子どもたちの学びの場になっていました。西念寺には、雨戸に当時の子どもが書いた落書きが残っています。
樹齢400年のクスノキ
本堂の東にあるクスノキは樹齢四百年とも言われ、市内でも有数の老樹です。