大瀧神社の由来は古く、推古天皇即位5年(604年)9月19日に、村の氏神社として、当時、横竹村字弥ケ迫(元町四丁目)に創建されたと伝えられています。
その後、次第に人々が集まり村は大きくなり、氏神社も次第に村の中ほどに遷座されることになり、永禄2年(1562年)に広く堤防が築かれ、耕地を造成したことにともない、元亀元年(1570年)弥ケ迫から七ツ畔(現在の白石二丁目大竹小学校裏の山裾)に奉献され「田中大明神」と称しました。
江戸時代に入り元文5年(1740年)現在の歯朶山に遷座し、社号も「大滝神社」と改め今日に至っています。
鳥居
大瀧神社は、海の神様とも言われ、漁をする人たちの信仰の神社でもありました、かつては本通りから境内参道石段まで大瀧神社の境内地で、現在の本通りのところに船を着け、お参りしたと語り継がれてきました。現在も鳥居や常夜灯が昔日を伝えています。
大竹中学校前の大きな「神明型鳥居」は、笠木が丸く、柱が垂直に立っています。貫は柱の内部で止め、外側に突き出ていないのが特徴です。市内の神社に奉納されている鳥居の中で、もっとも大きな石造物です。
太平洋戦争終結まで用いた皇紀年号で、寄進年を表しているのも特徴です。寄進年は「皇紀二千六百年」(1940年)となっています。
この鳥居は戦後まもなく道路新設のため、10mほど神社側に移動されました。そのとき、笠木の中央が折れ、現在接いであるのが確認できます。
また、昔から次のような作り話が語り継がれています。奉納工事の日にお役人が来て「村社格付の氏神社で、このような大きな鳥居を建てることは相成らぬ」と中止を受けたが、大竹人はここで「はいそうですか」と引き下がることはありませんでした。「ここまで作ったのにやめられるか、せわぁがあるか、建てぇたてぇ」と言って工事を続行したところ、罰があたったのか、笠木が折れたということです。
朝日山四良右衛門寄進の「常夜灯」
四股名「大蔦」力蔵は、文化13年(1816年)、大竹村二区の中川小五郎十三代目として生まれ、大坂番付生涯最高位西方「小結」になりましたが、すでに34歳を数えていました。
安政5年42歳で引退して、名を改め、年寄り「朝日山四良右衛門」を襲名し、後輩の指導にあたりました。
常夜灯は、その頃、尾道の「西国寺」に寄進されたものです。朝日山四良右衛門がお墓をふるさとへと船で尾道まで行き、積んで帰りましたが、常夜灯も一緒に持ち帰ったといいます。
注連柱(しめばしら)
昭和9年頃まで、大瀧神社の参道は、現在より約10m東側にありましたが、この場所に明治22年(1889年)、大竹村に古くから縁のあった「本明徳兵衛」という人が、市域で最初に注連柱を寄進しました。
そして、昭和10年に入り、朝鮮半島南部釜山で財をなした人によって、新しく寄進されたのが、現在の参道です。
本明徳兵衛の先祖は花箭(はなや)家で、江戸初期元和5年(1619年)の福島正則改易後に、紀伊の国(現和歌山県)から浅野長晟が広島入りした際に、商人として同行した花箭家は、大竹村が紙の産地であったことから、代々居を構えて商いを営んでいました。
幕末に入り、花箭家は、幕府と長州の動きを察知し、戦火を避けるため、広島に移りました。このとき花箭徳兵衛は、廻船問屋の本明家の養子に入り、紙のほか印刷業も手がけて大きく成長しました。「本川の水が変わることがあっても、本明家の資産は変わらないだろう」
と言われるほどでした。
このように、隆盛を極めていた明治22年、代々大竹村に世話になったお礼の気持ちを込めて、大瀧神社に注連柱を寄進しました。
また、同時に商売繁盛を祈願して、厳島神社回廊の入り口に、少し規模の大きくて同じ形の注連柱を寄進しています。
所在地 | 大竹市白石一丁目(大瀧神社境内内) | ||
建立年 | 明治22年(1889年) | 高さ | 274cm |
全面幅 | 30cm | 側面幅 | 29cm |
表記文字 (読み) |
威稜巍々與山高 恩波洋々若海深 (いりょうぎぎとして山と高く おんぱようようとして海のごとく深し) |
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意味 | 天子の威光は山のように高く 情けは海のように深い |
力石
大瀧神社の力石は、参道石段の登り口の右にある「由緒の碑」の裏側にあります。
2個の力石が並んでおり、右側が29貫目(109kg)、左側が23貫目(86kg)で、腹の上に持ち上げて、どれほど歩けるかという重さのものである。
きっと参道石段を上がり下がりしたのではないでしょうか。見過ごしやすい石ですが、物のない時代、広場での遊び道具であると同時に、これらは、人々の唯一自由に過ごせる境内でのふれあいを高めるもので、競争心を培い、体力増進にも役立ちました。
所在地 | 大竹市白石一丁目(大瀧神社境内内) | ||
建立年 | 石の種類 | 花崗岩 | |
右側の石の縦 | 59cm | 右側の石の横 | 39cm |
左側の石の縦 | 48cm | 左側の石の横 | 39cm |
平和塔
この塔は、昭和14年6月、大竹町の「一六會」が、初老を迎えた記念に建立したもので、もともとは銅製の神馬でしたが、戦争が激化する中で、若者の出征のみならず、金属製の文化財にも供出が強制されるようになり、この神馬も昭和18年1月に応召され、再びこの台座に帰還することはありませんでした。
そのため神馬を寄進した「一六會」が、昭和27年8月、二度と再びこのような戦争が起こらない世界へと祈りを込めて、神馬の面影残る台座に、丸い地球を表し、平和の象徴である鳩をとまらせた「平和塔」に姿を変えて、奉納されました。
正面には「平和塔」、右側面には「大蔵大臣池田勇人書」と彫られています。
慰霊の碑
大瀧神社の招魂社境内に、ひと際大きな石造物があります。これは、明治10年の西南戦争以後のあらゆる戦争の犠牲となった、旧大竹町地区の人たちの名前が刻まれている慰霊碑です。
これほど大きな戦争における犠牲者を供養する慰霊碑は、近郊では見られません。大竹村誕生以来、培われてきた大竹人気質を、今に伝えている貴重な石造建造物です。