疫神社

年代はわかりませんが、江戸時代に「大竹村上り組」の界隈で、流行の病により村人が苦しめられたため、この疫神社を建立したと伝えられています。

明治の頃から、この神社の境内では、子供神楽が舞われていましたが、敗戦後の経済発展に伴って環境が変わり、昭和30年代後半には舞われなくなったそうです。

疫神社は、大瀧神社の秋の祭礼では、神輿の終着場所となっています。この広い境内には、大治社、山崎社、恵比寿社などがあり、そして少し山道を登ると伊杵嶋姫命の厳島伝説「所塚・推古櫻」の史跡があります。

 

山崎社

宮中において寵愛されていた「七色の鹿」を大和の印南の里で射ちとった佐伯鞍職は、公卿たちに謀られて流罪となり、この地に流れ着きました。

その後、市杵嶋姫命と出会い事情を話し、神のお告げ帝に奏上することで名誉を挽回し、厳島神社を創建することになりました。

そして、593年に厳島神社は完成し、これにより佐伯鞍職は神職、ならびに佐伯郡を拝領したという伝説があり、後に「所の翁」としてここに祀られました。

 

石灯篭の盃状穴

国道から右下に、石段を十数段下りた左側にある石灯籠の一・二段目の台座に盃状穴があります。

台座一段には1個、台座二段に8個あります。その内、石灯籠の笠石の真下にある穴は、雨垂れによるものかもしれません。

また、この外に、狛犬の台座にも盃状穴が見られます。

所在地  大竹市元町四丁目(疫神社境内)
建立年 不明 石の種類 花崗岩
高さ(台座一段目) 34cm 高さ(台座二段目) 31cm