玉取祭

玉取祭は、かつては各村単位で組となって行っていたと言われています。

明治半ばを過ぎた頃、大竹では武道が盛んに行われ、道場もいくつかありました。大竹は昔から難波一甫流の流れを継承しており、その頃は、清水長蔵を頂点とした時代でした。

中川保太郎も清水長蔵に師事していましたが、広島に出て司箭流を学び、免許皆伝後に大竹に戻り、多くの優秀な同人を育てました。

明治20年代半ばのある年、中川保太郎の門人衆が大竹村の若者たちと、宮島の夏の祭りの一つである「玉取祭」に乗り込みました。

彼らは腕がたち、木野川で鍛えて及びも達者ということで少し調子に乗りすぎました。

玉取りは、四本の柱の中央に玉を吊るし、若者たちがもみ合いながら中央に向かって人垣を上り、玉を取るというのが常道でした。

しかし、大竹の若者たちは相手を蹴散らし、我が陣地を確保する豪傑たちがいて、さらに忍者のように身軽な大工の棟梁が四本柱をするりと駆け上がり、玉を取ってしまったといいます。その間、海田の連中の攻めに合い、決して楽ではありませんでしたが、来るもの来るものを皆海に沈め、圧倒的な力であったといいます。

そして、祭りが最高潮に達したとき、彼らは神官を乗せた船をひっくり返してしまいました。まさに前代未聞でした。

祭りでは本物の玉は、複製の玉と交換して持って帰るのですが、玉を交換しようと神官の前にかしこみ出て玉を差し出しましたが、びしょ濡れの神官ははぶてて玉を換えてくれませんでした。

大竹の若者は「ほんなら、ほんまもんを持って帰っちろうこい」と、なんと本物を持って帰ることにしました。

ここまでやると危険をともなうということで、彼らの頭が、皆に言い聞かせました。

「今日は命を捨てる覚悟で、皆固まって替えろうど」、「腰に付けた提灯の火を消せ」と、万全の用心をして無事大竹までたどり着きました。

それからというもの、大竹は無茶をするということで、仲間に加えてくれなくなったそうです。

本物の玉は、後々大瀧神社に保管されていたと言われていますが、その後、ゆくえがわからなくなっています。