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西国街道大竹路整備事業完了

大竹市・大竹市教育委員会の歴史・文化事業の環として「西国街道大竹路」の整備事業を実施しました。

山陽道(行政区)の幹線道として長く役割を果たした「西国街道大竹路」は今もその姿を残し、大竹市歴史研究会はこれを維持・活用していきたいと考えています。

11月上旬から草刈りや道標設置場所の調査開始し、121日に全スケジュールを完了しました。市域内外の皆さんの活用を期待します

作業の様子
馬試し
鉾の峠ー唐船浜
鳴川の石畳
鳴川トンネル西

「わがまちの方言」追加決定!

わがまちの方言を発刊して以来、新聞、ラジオなど各方面でとり上げていただき、おかげさまで当初作成した700部はほぼ完売となりました。

今後、お問い合わせいただいたときに「もうありません」と言うのは心苦しく、できるだけ多くの人に手にとっていただきたいと思い、思い切って追加で300部作成しました。

興味のある方はぜひ購入してください。

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「わがまちの方言」発刊

たち大竹市歴史研究会、昭和56発足から38年の歩みの中で、この度8冊目の郷土史「わがまちの方言」を発刊することになりました。

発刊に当たっては、各地域に根差す方言を掘り起こすため「編集委員会を設置し3年有余調査研究を重ね、50を超える編集作業を行なってきました。市域を中心とした広島県南西部に広がりを見せる「安芸弁(広島弁)の中で大竹地方で語られてきた方言を共通語比較し、少しのコメントを加え楽しく読んでいただけるように編集文章化しました。大竹弁丸出しの民話4載せています

また、編集作業に当たり、大竹市教育委員会のご指導、そして「公益財団法人ひろしま文化振興財団」のご支援をいただき、発行の運びとなりました。心から感謝いたします。


わがまちの方言

発行責任者  大竹市歴史研究会

価格700円(送料スマートレター180

申込方法(電話で申込んでください)

畠中 0827-52-7484

河野 0827-57-3777

浅野長晟 広島入城400年「歴 史講演会 」

元和5年(1619年)福島正則改易後、浅野長晟広島城城して今年で400になります。

大竹市歴史研究会では、大竹市教育委員会との共同事業として、歴史地理学研究家 佐々木卓也」先生を招聘し、歴史講演会を開催します。

幕末維新の騒乱期については、市域では長州側の視点で学習・歴史認識が多いのではないでしょうか?今回は、幕府方特に浅野家が日本の近代果たした役割などについて、講演していただきます。お気軽にご来場ください

開催日  7月6日() 1250開場

講演時間 1330~3時30

講師 佐々木 卓也

テーマ 広島藩政と佐伯郡域

入場無料

懐かしい写真「会社橋」

写真を整理していたら懐かしい写真が出てきました。
この写真にある橋は、「会社橋」と呼ばれ、大竹市が工業都市となっていく歴史が秘められています。

大竹市域では中世後期から、小瀬川水系を中心に手すき和紙が盛んに行われていましが、明治に入り、機械化による西洋紙の生産が行われるようになり、伝統的な手漉き和紙は徐々に衰退し、昭和30年代初頭にはほぼ小瀬川流域から姿を消してしまいました。
明治39年5月「芸防抄紙(株)」が和木村瀬田に建設されました。その後、芸防抄紙(株)は合併を重ね、大正15年に「日本紙業(株)芸防工場」となり、市域からも多くの人が小瀬川を渡って通勤するようになりました。はっきりとした時期は分かりませんが、大正後期から昭和初頭にかけて芸防工場が従業員のために現在の元町二丁目と和木町瀬田の間に自ら架けたのが写真の橋です。この木橋は、正式名称は「潜水橋」ですが、大竹市域では「会社橋」と呼ばれていました。「沈下橋」でありながら一工夫された木橋で、小瀬川が洪水となった時も、ひ弱に見えるこの木橋は幾度となく耐え、従業者の通行を支えました。
川の長さは約100mに達していましたが、橋の幅員は1m余りであったと記憶しています。幾つもの木製の橋脚の上に約1mの横板を並べているものが、洪水時に水面が橋を超えると中央で橋に括りつけられたワイヤーが左右の岸に流れ着く仕組みになっていました。そして、流れが正常になると橋を管理する人たちによって橋脚に橋板の部分を載せるという、当時としては大変合理的な仕組みで、コンクリートによる沈下橋以前に考えられたものかと思います。
日本紙業芸防工場が大竹工場に平成5~6年に大竹工場に移転されましたが、芸防工場はそのままの姿で現在も残されています。昭和の終わりには木橋も役割を終え、この1枚の写真は今も当時の人々の懐かしい思い出となっていることでしょう。

歴史的に繋がりのある「尾道研修」

大竹市歴史研究会では、3月6日(水)に平成30年度3回目の市域外活動として「尾道研修」を行いました。

朝から雨雲が東に向かう中、尾道の浄土寺に午前10時頃参拝、多くの国宝建造物、貴重な仏像など拝観させていただきました。
続いて山麓を西に108段の石段を登り詰めたところに、2mの大草鞋を掲げた山門に圧倒されながら、今回の研修テーマでもある大竹村との大相撲で深い繋がりのある高さ3mを超す「注連柱」が迎えてくれました。

この注連柱は、江戸後期の相撲取りである陣幕久五郎が建立したものです。
後の陣幕久五郎は、大坂場所を目指して嘉永元年(1848年)、出雲の国八束村松江市)から尾道に出て「初潮久五郎」の弟子となり、土地相撲に入りました。

左=初潮久五郎 右=大蔦力蔵

その後、師匠の娘と結婚して大阪を目指し、師匠初汐久五郎の知人であった大竹村出身の大坂相撲会所の小結「大蔦力蔵」に可愛がられ、江戸本場所行きを進められ、第九代横綱「秀の山雷五郎」の部屋を紹介され、江戸での活躍が始まります。
そして慶応元年(1865年)、37歳で相撲の頂点である第12代横綱に輝きました。
尾道の真言宗西国寺に本堂に向かって、亡き二人の師匠である「初潮久五郎」を右に、「大蔦力蔵」を左に大きく豪快な四股名を彫り,自らの名を伏せて建立している陣幕久五郎の心意気を感じました。

その後、古寺巡りをしながら激しく降りしきる雨の中「千光寺」より尾道水道を見ながら下山し、尾道の途轍もない古き歴史と多くの文化財を拝観して帰路につきました。

現在、大蔦力蔵の墓と常夜燈は大竹市内の寺社にそれぞれ歴史を伝えています。

「西国街道 ウォッチ」真剣に聞き入る参加者

市教育委員会生涯学習課が11月25日(土)に開催した「歴史探訪」に20名の参加があり、歴史研究会もガイドとして参加しました。

秋空に恵まれ午前10時スタート。
古くから小瀬川の歴史に残る「木野川の渡し」に思いをはせ、厳島伝説の「榺池神社」、「苦の坂峠の古戦場」、「亀居城跡」などの貴重な歴史的遺跡を巡り、江戸期の宿場風情の残る「玖波の町並み」をゴールに、約8キロを笑顔一杯元気で踏破して午後4時に終了しました。

明治150年記念特別講演会

大竹市歴史研究会では、昨年に引き続き市教委との共催事業として、3か月(678月)連続で講演会を行いました。
おかげさまで300名を超える参加者があり、大盛況に終えることができました。

こうした講演会事業を開催する中で、私たちは、明治維新の学習において、長州側から見た歴史に強い関心を持っていましたが、幕府側広島藩) から見た歴史についてはあまり学習していないことに気づきました。
そこで、この度「芸州口の戦いと大政奉還への内幕」と題して、広島藩の果たした役割について、穂高健一先生にご講演いただくことになりました。

今年最後の講演会として、多くの皆さんの参加をお待ちしています。

 講 師:穂高健一先生 (小説家・写真家・山岳会・文芸家協会の各会員)

 開催日:1124(日) 1330~1600

 会 場:大竹市総合市民会館 2階ホール 入場無料

「歴史講演会」の開催について

大竹市歴史研究会は、昨年に引き続き、市民参加の「歴史講演会」を開催いたします。
皆さんとともに市域の歴史を学習したいと思いますので、広くお誘い合わせの上ご来場いただきますようお待ちしています。

第1回 柳井市文化財保護審議会 会長 松岡睦彦 先生  6月23日()
    
大竹市総合市民会館2階ホール 午後1時30分~3時30分
    
テーマ「吉川家の歴代の歴史」」 

2回 秋芳町地方文化研究会 会長  蔵本隆博 先生 7月21日(土)
    
大竹市総合市民会館2階ホール 午後1時30~3時30
    テーマ
「来島叉兵衛と禁門の変」 

第3回 講師 浄土宗称名寺 前住持職 伊藤倫雄 先生  8月25日(土) 
    
大竹市総合市民会館 2階ホール 午後1時30分~3時30分 
    テーマ
「案外知らない大竹の話」

玖波小学校6年生  総合学習「西国街道 大竹路」を完全踏破

平成24年(2012年)度より、大竹市立玖波小学校6年生の総合学習では「今住むわが町を知ろう」 をテーマに、大竹市歴史研究会の案内で玖波の町並み探訪を行っています。
本年度は、「西国街道大竹路」74町3間(約8071m)を「しっかりとした足取りで踏破したい」という 児童の希望により、玖波小学校の校長先生以下教職員の方々の理解のもと、屋外活動を主体とした歴史学習の計画を立案しました。

事前説明 11月30日(木)午前10:10~12:20

校内研修室で大竹路全行程の画像をスライドに編集し、一コマずつ語り継がれた歴史と今も残る貴重な文化財について話しながら、2時間余による学習を終えました。

4か所の峠越えの難所「大竹路」の行程は、廿日市市大野境鳴川地区の「鳴川の石畳」から広島・山口両県の境を流れる小瀬川の「木野川渡し」までを、屋外3回シリーズで行うことにしました。

屋外学習1日目 12月4日(月)午前10:00~12:20

最初は廿日市市大野境の橋からスタート。橋を渡りまもなく急坂にかかります。
この急坂は「鳴川の石畳」と呼ばれ、長さは22mで、鳴川から運んだ花崗岩をしっかりと敷き詰め今日までその姿を残しています。
寛永9年(1632年)に加藤清正の嫡子忠広が急遽幕府の命令によって熊本藩から出羽庄内藩一万石に改易されます。熊本城の明け渡しを見届ける役目であった幕臣内藤政長は、滞りなく熊本城の明け渡しが行われたことを確認した後、往路では船酔いがひどかったため、帰路は西国街道を歩いて江戸に帰ることにしました。この知らせが広島藩に伝えられ、西国街道の整備が急ピッチで進められ、雨で山道がくぼんだこの坂道を緊急に整備し、「鳴川の石畳」が完成したと言われています。
「鳴川の石畳」から難所「鉾の垰」、「馬だめし」を越え、宿場の香りが残る玖波の町並みの中心部に入り、「角屋釣井」、「高札場跡」、「本陣洪量館跡」、漆喰造りの「小城材木店」、そして宿場の特徴である「鍵型の道」が江戸時代から残されていることを学習しました。

また、現在でも昭和の面影残る「魚屋さん」が2軒あります。元気な声で挨拶をする児童たちに、元気をもらったご夫婦の笑顔が印象的でした。
忘れられつつある昭和の風景を、今も醸し出しています。

その後は、称名寺に行きました。長州の役による焼失を免れた貴重な文化財を確認したところで屋外学習の1日目を終え、児童たちは楽しみな給食の待つ玖波小学校に帰って行きました。

屋外学習2日目 12月7日(木)午前9:00~12:20

2日目は玖波地区の氏神社「大歳神社」からスタートしました。大歳神社にも歴史を知らしめる「力量石」や 「神生石(みあれいし)」などの文化財があります。これらは近郊では見られない、社のない時代日本民族は山や岩などを信仰の対象としていた時代のものと言われ、現在も大切に信仰としてまた文化財の一つとして保存されており、児童たちは驚きの顔で説明を聞きノートにしっかり書きとっていました。
それから黒川地区に入り「大膳橋(現湯舟橋)」は、関ケ原の合戦後の慶長8年(1603年)、亀居城築城時に物資輸送のため、ここに福島正則の家老 木造大膳が架けたといわれ、村人たちが喜んで「大膳橋」そして川も「大膳川」と呼ばれるようになりました。
ここから「亀居城跡」へと足取り軽く歩き、およそ400年前に築かれた城の跡には多くの貴重な史跡が残されています。
井戸2ヵ所跡・刻印・矢穴跡・天守台石垣跡など、また本丸に立てば「三県一望」として広島湾の西南部を一望でき、眼下には企業城下町として活発な経済活動をしている工場群を見ることができます。
また、亀居城跡から南に下って、「西念寺(長州の役砲弾跡)」~小方の町並み(和田家の長屋門~芭蕉の150回忌記念句碑・けごろもの碑)」などの貴重な歴史をしっかり学習し、元気な声を快晴の空高く響かせながら、疲れを見せず2日目を終え、徒歩で玖波小学校まで帰って行きました。

屋外学習3日目 12月13日(水)午前9:15~12:00

最終日は、最後の難関である御園地区の「苦の坂峠」口に、スクールバス2台で6年生27名、校長先生、教職員数(3名)が集まりました。
この頂上において、慶応2年6月14日(1866年)早朝、幕府軍1000の兵に対し、長州遊撃隊など250の少数精鋭部隊が戦闘を開始し、2時間余の攻防の末、幕府軍を小方に追い落としまた。「長州の役苦の坂攻防の地」として、当時の姿をとどめています。その後江戸幕府は朝廷に政治を返上、近代日本の夜明けを迎えることになった貴重な古戦場跡です。
苦の坂峠から西に下り、木野二丁目に入ると、伊都岐嶋姫命伝説の「榺池神社・汐湧石」があり、鎮守の森に囲まれ、約1400年前の推古天皇の時代にタイムスリップすることのできる静寂さを感じます。この伊都岐嶋姫命が九州大宰府から現在の苦の坂に差し掛かり、重く感じた「榺・縦糸のロール」を池に投げ落とし身を軽くして厳島に渡ったという伝説から「苦の坂峠」と呼ばれることとなりました。また、1年で一番満潮の高い旧暦6月17日神社の基礎となっている「汐湧石」から汐が吹き出るといわれています。

そこからしばらく歩くと、古老たちが長く語り継いだ「太閤振舞い井戸」があり、きれいな湧水が出ています。           木野一丁目(中津原)は、約400年前の慶長年間に、村人が住めるよう「小林の三角和久」、そして約100mの城の石垣のごとく頑丈な「巻き石」を築き、川の流れに沿った円形の中州を新田開発として成し遂げ、村人が住めるようになったといわれています。そして町屋に入ると、江戸時代京の都から多くの朝廷の要人、各藩の大名による参勤交代で西国街道は賑わい、芸防の境を流れる小瀬川の水嵩が高くなると渡しの舟が出ないため、要人たちが休息した庄屋格の見廻り役の児玉家に立ち寄り休息したといわれ、今でも地区の人たちにより親しみを持って「本陣門・開かずの門」と呼ばれています。 

そして小瀬川の中継地として栄えた、大正・昭和初期の町並みが残る木野一丁目「格子戸通り」を学習して、児童の大いなる希望であった「西国街道大竹路」を完全踏破しました。
たくさんの歴史の話や文化財を記録して、スクールバス2台に分乗し、大竹市歴史研究会の畠中会長、河野副会長に一生懸命手を振りながら、総合学習を終え、玖波小学校に向かって行きました。