「わがまちの方言」追加決定!

わがまちの方言を発刊して以来、新聞、ラジオなど各方面でとり上げていただき、おかげさまで当初作成した700部はほぼ完売となりました。

今後、お問い合わせいただいたときに「もうありません」と言うのは心苦しく、できるだけ多くの人に手にとっていただきたいと思い、思い切って追加で300部作成しました。

興味のある方はぜひ購入してください。

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「わがまちの方言」発刊

たち大竹市歴史研究会、昭和56発足から38年の歩みの中で、この度8冊目の郷土史「わがまちの方言」を発刊することになりました。

発刊に当たっては、各地域に根差す方言を掘り起こすため「編集委員会を設置し3年有余調査研究を重ね、50を超える編集作業を行なってきました。市域を中心とした広島県南西部に広がりを見せる「安芸弁(広島弁)の中で大竹地方で語られてきた方言を共通語比較し、少しのコメントを加え楽しく読んでいただけるように編集文章化しました。大竹弁丸出しの民話4載せています

また、編集作業に当たり、大竹市教育委員会のご指導、そして「公益財団法人ひろしま文化振興財団」のご支援をいただき、発行の運びとなりました。心から感謝いたします。


わがまちの方言

発行責任者  大竹市歴史研究会

価格700円(送料スマートレター180

申込方法(電話で申込んでください)

畠中 0827-52-7484

河野 0827-57-3777

浅野長晟 広島入城400年「歴 史講演会 」

元和5年(1619年)福島正則改易後、浅野長晟広島城城して今年で400になります。

大竹市歴史研究会では、大竹市教育委員会との共同事業として、歴史地理学研究家 佐々木卓也」先生を招聘し、歴史講演会を開催します。

幕末維新の騒乱期については、市域では長州側の視点で学習・歴史認識が多いのではないでしょうか?今回は、幕府方特に浅野家が日本の近代果たした役割などについて、講演していただきます。お気軽にご来場ください

開催日  7月6日() 1250開場

講演時間 1330~3時30

講師 佐々木 卓也

テーマ 広島藩政と佐伯郡域

入場無料

懐かしい写真「会社橋」

写真を整理していたら懐かしい写真が出てきました。
この写真にある橋は、「会社橋」と呼ばれ、大竹市が工業都市となっていく歴史が秘められています。

大竹市域では中世後期から、小瀬川水系を中心に手すき和紙が盛んに行われていましが、明治に入り、機械化による西洋紙の生産が行われるようになり、伝統的な手漉き和紙は徐々に衰退し、昭和30年代初頭にはほぼ小瀬川流域から姿を消してしまいました。
明治39年5月「芸防抄紙(株)」が和木村瀬田に建設されました。その後、芸防抄紙(株)は合併を重ね、大正15年に「日本紙業(株)芸防工場」となり、市域からも多くの人が小瀬川を渡って通勤するようになりました。はっきりとした時期は分かりませんが、大正後期から昭和初頭にかけて芸防工場が従業員のために現在の元町二丁目と和木町瀬田の間に自ら架けたのが写真の橋です。この木橋は、正式名称は「潜水橋」ですが、大竹市域では「会社橋」と呼ばれていました。「沈下橋」でありながら一工夫された木橋で、小瀬川が洪水となった時も、ひ弱に見えるこの木橋は幾度となく耐え、従業者の通行を支えました。
川の長さは約100mに達していましたが、橋の幅員は1m余りであったと記憶しています。幾つもの木製の橋脚の上に約1mの横板を並べているものが、洪水時に水面が橋を超えると中央で橋に括りつけられたワイヤーが左右の岸に流れ着く仕組みになっていました。そして、流れが正常になると橋を管理する人たちによって橋脚に橋板の部分を載せるという、当時としては大変合理的な仕組みで、コンクリートによる沈下橋以前に考えられたものかと思います。
日本紙業芸防工場が大竹工場に平成5~6年に大竹工場に移転されましたが、芸防工場はそのままの姿で現在も残されています。昭和の終わりには木橋も役割を終え、この1枚の写真は今も当時の人々の懐かしい思い出となっていることでしょう。

歴史的に繋がりのある「尾道研修」

大竹市歴史研究会では、3月6日(水)に平成30年度3回目の市域外活動として「尾道研修」を行いました。

朝から雨雲が東に向かう中、尾道の浄土寺に午前10時頃参拝、多くの国宝建造物、貴重な仏像など拝観させていただきました。
続いて山麓を西に108段の石段を登り詰めたところに、2mの大草鞋を掲げた山門に圧倒されながら、今回の研修テーマでもある大竹村との大相撲で深い繋がりのある高さ3mを超す「注連柱」が迎えてくれました。

この注連柱は、江戸後期の相撲取りである陣幕久五郎が建立したものです。
後の陣幕久五郎は、大坂場所を目指して嘉永元年(1848年)、出雲の国八束村松江市)から尾道に出て「初潮久五郎」の弟子となり、土地相撲に入りました。

左=初潮久五郎 右=大蔦力蔵

その後、師匠の娘と結婚して大阪を目指し、師匠初汐久五郎の知人であった大竹村出身の大坂相撲会所の小結「大蔦力蔵」に可愛がられ、江戸本場所行きを進められ、第九代横綱「秀の山雷五郎」の部屋を紹介され、江戸での活躍が始まります。
そして慶応元年(1865年)、37歳で相撲の頂点である第12代横綱に輝きました。
尾道の真言宗西国寺に本堂に向かって、亡き二人の師匠である「初潮久五郎」を右に、「大蔦力蔵」を左に大きく豪快な四股名を彫り,自らの名を伏せて建立している陣幕久五郎の心意気を感じました。

その後、古寺巡りをしながら激しく降りしきる雨の中「千光寺」より尾道水道を見ながら下山し、尾道の途轍もない古き歴史と多くの文化財を拝観して帰路につきました。

現在、大蔦力蔵の墓と常夜燈は大竹市内の寺社にそれぞれ歴史を伝えています。