大竹市域の昔ばなし

 大竹市の各地域に昔から伝わるお話です。

日本史の中で大きな節目となった、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、市域にも大きな変化をもたらしました。関ヶ原の戦いで毛利輝元が敗軍の将となり、周防・長門の二国に押し込められ、その旧領である安芸・備後二ヶ国は、福島正 … 続きを読む 栗谷三ヶ寺 福島侯に一本勝ち

大正12年(1923年)、黒川のある家に宿泊していた人が、明治新開の広場で飛行機を飛ばすことを計画しました。このことを聞いた当時の小方小学校の校長は、これは珍しいことだと佐伯郡下の各小学校にその案内状を出しました。 話は … 続きを読む 飛ばなかった飛行機

黒川地区の小方ICの東側に妙見森という小山があります。昔は海上にある小島で、潮の引いた時は「飛渡り」の出来る浅瀬で繋がっていました。 いつの頃かこの妙見森に狐が住み、夜間森の前を通る人に砂を撒いたり、宮島での結婚式に呼ば … 続きを読む 妙見山の狐

松ケ原の堂之本には、昔から「くわず柿」という柿の木がありました。このことは文政2年(1862年)の国郡誌にも、名勝として紹介されています。 古い通りのすぐそばに、四間四方の盛土をした塚があり、その中に大きな柿の木が生えて … 続きを読む 松ケ原のくわず柿

飛鳥時代、推古天皇即位の年(593年)に、大和の国の印南の野に七色の声を出して鳴く鹿が現れ、それが評判となって、推古天皇の耳に入り、「その鹿の姿をぜひ見たい。誰かその鹿を捕えてこい」と仰せになりました。 朝廷に仕える公卿 … 続きを読む 佐伯鞍職(さいきくらもと)

上り組(現在の元町四丁目)の住人に、庄平という人がいました。 庄平は、小間物(日用品)の商いをしており、週に1、2度は商いのために広島に通っていました。 広島からの帰り道、油見古城山(鼻繰山)あたりでいつも暗くなります。 … 続きを読む 尻焼き庄平

江戸末期の天保年間(1830年~1843年)の頃、元町には近郊に聞こえた三人の豪傑がおり、後の時代にも語り草になっています。 一人は、大蔦(おおとび)力蔵といって次組(元町三丁目)に広大な敷地を有する大蔦屋敷の住人で、名 … 続きを読む 豪傑三人衆

一区上り組(元町四丁目)では、色々な物品を背負い、商いに出かける人が多くいました。 遠くは錦明路の峠を越え、玖珂・高森方面にまで足を伸ばす人もいましたが、近くでは小瀬川を上り、川手や渋前(しぶくま)あたりまで出かけること … 続きを読む 大きな「なば(松茸)」

江戸時代から明治・大正・昭和20年代まで、大竹は手すき和紙の産地として栄えました。 また、小瀬川の河口域を港代わりに活用し、帆船を数多く所有しており、和紙を中心に大坂や北九州へと商いを広げ、船に乗る人も多くいました。 あ … 続きを読む 亀の背中

現在は、機械に乗せることにより正確に重さを量ることができますが、昔は目盛りが刻んである棒の先端に物を引っかけて重さを量っていました。 大きいものは百貫目(約375kg)の量りがあり、二人が天秤にして担ぎ、もう一人が計量す … 続きを読む 鰻釣り

昔は、夏の夕方、子どもたち涼んでいると、大人たちが自然との関わりについて面白おかしく話し、注意を怠らないよう教えるという光景がよくありました。 「われらぁのう、へそをよう大事に包うじょけよ。わしがのう、大河原で畑を打ちよ … 続きを読む ドンドロ(雷)とへそ

「大河原にいってのう、畑を打ちよったら兎が出たけえ、追わえていったら、池の中に飛び込んで泳いで逃げ出した。わしも後を追って池の中に入って、兎を捕まえようと手をかいとったら、なんと山芋が出た。それで、上にあがったら鰻や鮒が … 続きを読む 兎追い

似たような話が2つあります。どちらも大竹の人の負けず嫌いの性格を表していて面白いです。   ある人が、「わしがのう、畑を打ちよって、やれえらやと思うて崖に座ったら、後ろに蛇が座ちょった」と言うと、 「おじゃん、 … 続きを読む 蛇山のごとし・大百足

幕末、長州藩は倒幕に向けて走り始め、国境を封鎖し、厳重警備にあたった時期がありました。 小瀬峠の入口の店先に検問所を構え、安芸・周防の出入りを厳しくしました。 国境を接する木野村の人は、従来から周防側と生活面での往来があ … 続きを読む 竹しょんべん

小瀬川の上流域のとある集落で、お金持ちの箱入り娘が皮膚病にかかり、親は色々と手を尽くしましたが、いっこうに良くなりませんでした。 そこに、大竹村の人が商いで寄ったところ、その家の主人から相談を受けました。 「どこかええ薬 … 続きを読む がまの油

朝池槌五郎は、明治に大竹に住んでいた棒術の達人です。 朝池槌五郎の晩年の頃、小川の向こう岸に渡ろうと思っていると、川の中に若者がいたので声をかけました。 「お兄さん、ちょいとあの向こうに背負うて渡してくれ」と言うと、若者 … 続きを読む 朝池槌五郎

元町の疫神社の境内で永く舞われていた「カンドロの舞」は、いつ頃どのような形で始まったのかはっきりしません。 昭和3年(1928年)、昭和天皇即位の御大典の折に、商家の二階堂家の前で舞った際、「上り組にゃあほがいな舞がある … 続きを読む カンドロの舞

玉取祭は、かつては各村単位で組となって行っていたと言われています。 明治半ばを過ぎた頃、大竹では武道が盛んに行われ、道場もいくつかありました。大竹は昔から難波一甫流の流れを継承しており、その頃は、清水長蔵を頂点とした時代 … 続きを読む 玉取祭

明治時代、大竹には多くの武道に秀でた人がいました。 柔術の清水長蔵や中川保太郎、棒術の朝池槌五郎など、村にはいくつもの道場があったと言われています。 どこの道場かはわかりませんが、門人の一人が道場の前を掃いていると、背後 … 続きを読む 鉄の棒をねじった門人

明治9年(1876年)、当時、大きさと造りの素晴らしさは西日本三大神輿の一つと言われた、大きな神輿が、京都から船に乗って、小島新開の棒鼻の波止に着きました。 村人たちは、神輿を拝もうと総出で波止に集まり、「まことに神々し … 続きを読む お神輿を担いだ六人衆

旧正月15日の「とんど」には、上・中・下の各町に分かれ、屋台に載せる飾りものを競う習慣がありました。 明治元年、下の町では、ある家の裏で数日をかけて秘密の虎を作りました。そして今年こそは他の町に負けないと勇んで表の車に載 … 続きを読む 出そうで出んのが小方の虎

これも狐にまつわる話です。狐が出てくる話は全国的にも多く、のどかな当時の村人の暮らしが偲ばれます。 昔、町へ買物に行った帰り、山道で背負った荷が急に重くなり、驚いて振り向くと「油揚げ」を狙った狐が乗っており、びっくり仰天 … 続きを読む 油揚げを狙った狐

昭和初期までは、比較的人口の多い地域の鎮守のお祭りでは屋台が軒を並べ、近郊からの人も多くそれは賑やかでありました。 立戸の神社のお祭りも大変賑やかで、「たさやん」という地元の人が「しゃっぽん焼き」という二重焼きの店を開い … 続きを読む たさやんのしゃっぽん焼き

昔、この辺りを厳島大明神が巡覧されました。 そのとき、あまりの炎天極暑のため、この滝の上にある船に似た水たまりに足を入れ、さらにほとりにあった石をまくらにして休んだと伝えられています。 そして、この滝を上からのぞき見ると … 続きを読む 湯舟の滝

昔、安芸の三十という男狐と周防のお三という女狐が、弥栄峡の川を挟んで、密かに恋を続け、ついに夫婦となりました。 しかし、間もなく安芸と周防に争いが起こり、周防軍は、白滝山に築城の段取りを始めました。 夫婦狐は、お互いに自 … 続きを読む 弥栄峡のお三狐

大人原には大人(おおひと)の足跡と伝えられる畑があります。 この畑は、右足を踏み込んだ足跡のような形があり、大きさはおよそ1尺4寸(約42.4cm)もあります。 左足の足跡は、峯谷を越え鳴川にあると言われています。これは … 続きを読む 大人の足跡(おおひとのあしあと)

江戸時代の文政2年(1819年)に編纂された国郡志によると、弥栄峡の魚切では初夏の6月頃、海から産卵のために上ってくる鱒を網で盛んに獲っていたと記されています。 弥栄峡の最北端に、奇岩がそそり立つ絶景の「鳥越の渕」があり … 続きを読む 魚切の滝

栗谷町の奥谷尻では、昔から「とんど」が御法度となっています。とんどを焚くと牛鬼が出てきて暴れるからだとの言い伝えがあるからです。 とんどは左義長(さぎちょう)ともいい、旧暦一月十五日の望(もち)の日の前夜、厄払いの意味も … 続きを読む 牛鬼の話