「山代の国(岩国市美和町・本郷町)」の歴史

3月2日(水)、大竹市歴史研究会の今年最初の研修として、岩国市美和町に「山代の国の歴史研修」に行ってきました。
21名が参加し、多くの文化財に触れることができ、とても楽しい一日でした。

江戸後期、岩国藩主の吉川経幹は、窮乏にあえぐ坂上組(さかうえぐみ)の改革のため坂上村渋前に「撫育(ぶいく)役場」を東林寺に設置し、玉木東平(後の大審院長)を任命して地域の更生を図りました。
撫育役場は後に長州の役の前線基地となり、玉野東平は坂上組内を奔走して岩国領と長州本藩の境を分かち合いながらも、芸州口に対する北の門を守り抜きました。
また、浄土真宗真教寺境内には、芥川龍之介が錦帯橋に来て父の里を指して「本是山中人(もとこれさんちゅうのひと)」と書いた一文を「父子の碑」として地区の人々によって建立されています。
その他にも大切にされている「盃状穴」など多くの文化財を見学し、歴史の足音が聞こえてくる美和町のまちを探訪することができました。

それからトンネルを抜け、山代街道の中継地点として栄えた「本郷町」に入りました。かつては村でありながら「警察署」が置かれた交通の拠点地域でした。
この地は、中世後期に和紙の生産が始まったところで、原料の「楮」が土壌に適していたため生産が過剰となり、近隣の美和町や広島県側の栗谷地区から小瀬川下流に向けて和紙生産が広まりました。
日本でここだけにある立派な「楮神社」にお参りをしてきました。

吉田松陰の実兄の「杉 民治(すぎ みんじ)」は、明治5年(1872年)から明治9年(1876年)まで旧本郷村の行政に関わり、和紙の生産から稲作を奨励し、新たに開墾、灌漑用水路を各所に張り巡らし村を支えました。
現在も用水路の水は勢いよく流れており、「開拓の碑」が田圃の傍に建てられています。
その業績は今も地区民の誇りとして、感謝の気持ちを持っておられることを、案内役の方からも強く感じ取ることができました。地区の人たちみんなで地区の歴史を温めているようでした。
その他にも「代官所跡」など多くの場所を巡り、両地区の歴史民俗資料館では、貴重な歴史と文化財を見て学習することができ、山代の国の歴史研修を終えました。

今年2回目の研修は、4月8日(水)に日帰り研修として「八千代湖と毛利元就歴史探訪」を学習テーマとして安芸高田市を訪ねます。
すでに現段階で21名の参加希望者があり、八千代湖の花見~元就の譜代家老宍戸隆家の居城跡~宍戸司箭神社~歴史民俗資料館~元就の墓などの見学の準備を進めています。

2015年の活動について

大竹市歴史研究会では、今年は「大竹市の方言集ー日常会話の中からー」をテーマとして、調査研究・製本化に向けて取り組んでいきます。
それとあわせてホームページも充実させ、皆さんに大竹市の歴史を知ってもらい、語り合える機会を作っていきたいと思います。

また、会の活動としては、日帰り・一泊合わせて4回の市域外研修を開催する予定です。
今年は「広島城学習」、「先人の築いた石垣巡り」なども計画に入れ、準備を進めています。
その他にもふるさと史の講座や工場見学など、楽しい内容を組み入れながら「友だちになろうよ」をモットーに活動していきます。

歴史に興味のある方やみんなと一緒にどこかに行きたい方は、ぜひ大竹市歴史研究会に入っていただき、一緒に活動しましょう!

ボランティアガイドの発足について

大竹市歴史研究会では、活動の一環として「大竹 ボランティア ガイド サークル」を会員6名により発足させ、このたび初会合を開きました。

今後は、広く「ふるさと史」を紹介できるよう、市域を9つのエリアに分けて毎月1回「学習会と現地実習」を行い、なるべく早いうちにどのエリアもご案内できるよう進めていきます。

【案内するエリアの案】
1.玖波の町並み
2.小方の町並み
3.亀居公園「亀居城跡と詩の坂道」
4.油見古道
5.元町界隈
6.大瀧神社界隈
7.白石界隈(新開の経緯と幕長戦争)
8.木野散策  
9.大竹一周歴史ガイドなど(市域の歴史・文化財が紹介できるようなコースを設定します)

テレビ放送のお知らせ

2月21日(土)あさ9時30分から、広島ホームテレビの「あっぱれ!熟年ファイターズ」で「大竹市で歴史めぐり」が放送されます。

先日、大竹市歴史研究会の会長も取材を受け、出演する予定です。
お楽しみに!

広島ホームテレビーあっぱれ!熟年ファイターズ
http://home-tv.co.jp/jukunen/2015/02/post-68.html

 

油見の貝塚と明貝

油見~立戸の山裾には、昔からの生活道が直線状に通っています。
この道を中心にして、貝塚があちこちに姿を見せています。

油見の貝塚については、銅銭の寛永通宝や中国の北宗銭・景徳元宝(1004年)などが掘り出されており、廿日市市あたりの貝塚と同様に中世から近世のものと思われます。
江戸時代に編集された国郡志・郷邑記の油見村の項に
「女は磯へ出、貝を掘る」「小貝を明貝にして乾かして他郷に送る」とあります。「明貝」とは貝のむき身のことで、昔から貝は田畑の少ないこの地域の重要な生活の糧となっていまいた。
こうした貝殻が捨てられ、長い間に積もり積もって貝塚となりました。

岩国の昔話に、大竹の明貝売りが狐に化かされた話があります。藩政時代、厳しい掟の中で食べ物も制限されていましたが、塩鰯と明貝の小商人は村々へ入ることが許されており、国境を越えた商いが行われていました。