油見~立戸の山裾には、昔からの生活道が直線状に通っています。
この道を中心にして、貝塚があちこちに姿を見せています。
油見の貝塚については、銅銭の寛永通宝や中国の北宗銭・景徳元宝(1004年)などが掘り出されており、廿日市市あたりの貝塚と同様に中世から近世のものと思われます。
江戸時代に編集された国郡志・郷邑記の油見村の項に
「女は磯へ出、貝を掘る」「小貝を明貝にして乾かして他郷に送る」とあります。「明貝」とは貝のむき身のことで、昔から貝は田畑の少ないこの地域の重要な生活の糧となっていまいた。
こうした貝殻が捨てられ、長い間に積もり積もって貝塚となりました。
岩国の昔話に、大竹の明貝売りが狐に化かされた話があります。藩政時代、厳しい掟の中で食べ物も制限されていましたが、塩鰯と明貝の小商人は村々へ入ることが許されており、国境を越えた商いが行われていました。