日本人の海外移民は、明治の初めには始まったと言われています。しかし、本格的には、明治18年(1885年)に日布(日本とハワイ)移民条約が締結され、ハワイへの移民が公式に許可されるようになってからです。
それから、移民は年々増加し、特に、広島県や山口県は移民が多く、明治40年(1907年)には広島県内の海外渡航者は5,274人に達し、海外在住者は36,094人となりました。
その後も、海外移民は昭和10年代初めまで続けられましたが、現地での労働環境が過酷であったり、現地の人との摩擦もあったり、必ずしも順調であったわけではなかったそうです。
こうした状況の中で、栗谷村奥谷尻広原の谷本亀松は、30歳の若さで米国カリフォルニア州に移住し、20年間一生懸命頑張り、大正14年(1925年)に日本に帰ってきました。
当時、広原地区には、棚田が約300枚あり、各所に用水路ありましたが、ここに架けられていた11ヶ所の木橋が腐敗して危険な状態であったことに気付き、彼は石橋の材料を寄贈しました。
それを記念して、地区の人々により感謝の石碑が建てられました。その後、昭和15年、栗谷小学校広原分教場の新校舎を建てる際、用地がかさ上げされたため、現在では石垣の一部になっているように見えます。
また、石橋は、昭和26年のルース台風の被害により、すべて流失してしまい、現存していません。
所在地 | 大竹市栗谷町広原(広原地区集会所内) | ||
建立年 | 大正14年(1925年) | 石の種類 | 花崗岩 |
高さ | 100cm | 横幅 | 29cm |
表記文字 | 大正十四年十一月 石橋十一ヶ所 石 材料寄付 谷本亀松 |