「境界争い」のページを追加しました。
昔、大竹市域にあった境界争いの歴史をまとめましたのでご覧ください。
油見~立戸の山裾には、昔からの生活道が直線状に通っています。
この道を中心にして、貝塚があちこちに姿を見せています。
油見の貝塚については、銅銭の寛永通宝や中国の北宗銭・景徳元宝(1004年)などが掘り出されており、廿日市市あたりの貝塚と同様に中世から近世のものと思われます。
江戸時代に編集された国郡志・郷邑記の油見村の項に
「女は磯へ出、貝を掘る」「小貝を明貝にして乾かして他郷に送る」とあります。「明貝」とは貝のむき身のことで、昔から貝は田畑の少ないこの地域の重要な生活の糧となっていまいた。
こうした貝殻が捨てられ、長い間に積もり積もって貝塚となりました。
岩国の昔話に、大竹の明貝売りが狐に化かされた話があります。藩政時代、厳しい掟の中で食べ物も制限されていましたが、塩鰯と明貝の小商人は村々へ入ることが許されており、国境を越えた商いが行われていました。
小瀬川はかつて別名を木野川ともいい、全国的にも珍しい二つの名前を持った川でした。
古来、この川が安芸と周防の国境だったことで紛争が絶えず、明治以降も広島・山口の両県民は競い合って、それぞれが我が方の呼び方を頑固に守ってきました。
ようやく昭和43年(1968年)に河川の管理が建設省に移った段階で「小瀬川」に統一されました。
この川に架かる橋の名前もまた、川の名や地名を採用すると折り合いがつかず、苦労して付けたあとが見られます。
大正10年(1921年)架橋の木野と小瀬を結ぶ「両国橋」は、旧山陽道であることから妥当な名前が付けられたと思われます。
続いて、大正12年(1923年)に、坂上までの二間道路が開通し、その際架橋された後飯谷と弥栄をつなぐ橋は、「堺橋(さかえ橋)」と名付けられました。
また、栗谷と釜ケ原を結ぶ橋は、昭和4年(1929年)に渡し船を止めたことにより架橋されたものですが、堺をもじり、「栄橋(さかえ橋)」と名付けられました。
ところが、昭和17年(1942年)に完成した観光道路(現在の国道2号)の大橋の名称にはほとほと困ったようで、またも「栄橋(さかえ橋)」と名付けてしまい、ここで小瀬川に三つのさかえ橋ができてしまいました。
このうち堺橋は、朱塗りの美しい鉄橋でしたが、弥栄ダムにより水没することになり、代わりに弥栄大橋が架けられました。
なお、栄町の名は、栄橋にちなんで区画整理のときに付けられたものです。
1月16日(金)に、広島城や平和公園などを専門にボランティアガイドされる7名を大竹市に招き、亀居公園を中心に歴史交流会を行ないました。
最初に案内したのは、福島正則の客員家老、古造大膳が亀居城築城時に架けたといわれる黒川二丁目の「大膳橋」。
それから、毛利氏への備えとして小規模ながら強固な亀居城跡に到着。史跡公園として周囲500mの山頂に今も残る刻印、矢穴、井戸跡、天守台を見て回り、公園内に設置された作詩家石本美由起氏の7つの歌碑「詩の坂道」など、およそ2時間かけて案内をしました。
その後、小方の町並みに入り、長州戦争時の幕府軍艦からの艦砲射撃による「西念寺砲弾跡」、「和田家の長屋門」、そして松尾芭蕉の句碑「氅の碑」などを案内し、広島市のボランティアガイドグループとの初めての交流会は終わりました。