玖波小学校6年生  総合学習「西国街道 大竹路」を完全踏破

平成24年(2012年)度より、大竹市立玖波小学校6年生の総合学習では「今住むわが町を知ろう」 をテーマに、大竹市歴史研究会の案内で玖波の町並み探訪を行っています。
本年度は、「西国街道大竹路」74町3間(約8071m)を「しっかりとした足取りで踏破したい」という 児童の希望により、玖波小学校の校長先生以下教職員の方々の理解のもと、屋外活動を主体とした歴史学習の計画を立案しました。

事前説明 11月30日(木)午前10:10~12:20

校内研修室で大竹路全行程の画像をスライドに編集し、一コマずつ語り継がれた歴史と今も残る貴重な文化財について話しながら、2時間余による学習を終えました。

4か所の峠越えの難所「大竹路」の行程は、廿日市市大野境鳴川地区の「鳴川の石畳」から広島・山口両県の境を流れる小瀬川の「木野川渡し」までを、屋外3回シリーズで行うことにしました。

屋外学習1日目 12月4日(月)午前10:00~12:20

最初は廿日市市大野境の橋からスタート。橋を渡りまもなく急坂にかかります。
この急坂は「鳴川の石畳」と呼ばれ、長さは22mで、鳴川から運んだ花崗岩をしっかりと敷き詰め今日までその姿を残しています。
寛永9年(1632年)に加藤清正の嫡子忠広が急遽幕府の命令によって熊本藩から出羽庄内藩一万石に改易されます。熊本城の明け渡しを見届ける役目であった幕臣内藤政長は、滞りなく熊本城の明け渡しが行われたことを確認した後、往路では船酔いがひどかったため、帰路は西国街道を歩いて江戸に帰ることにしました。この知らせが広島藩に伝えられ、西国街道の整備が急ピッチで進められ、雨で山道がくぼんだこの坂道を緊急に整備し、「鳴川の石畳」が完成したと言われています。
「鳴川の石畳」から難所「鉾の垰」、「馬だめし」を越え、宿場の香りが残る玖波の町並みの中心部に入り、「角屋釣井」、「高札場跡」、「本陣洪量館跡」、漆喰造りの「小城材木店」、そして宿場の特徴である「鍵型の道」が江戸時代から残されていることを学習しました。

また、現在でも昭和の面影残る「魚屋さん」が2軒あります。元気な声で挨拶をする児童たちに、元気をもらったご夫婦の笑顔が印象的でした。
忘れられつつある昭和の風景を、今も醸し出しています。

その後は、称名寺に行きました。長州の役による焼失を免れた貴重な文化財を確認したところで屋外学習の1日目を終え、児童たちは楽しみな給食の待つ玖波小学校に帰って行きました。

屋外学習2日目 12月7日(木)午前9:00~12:20

2日目は玖波地区の氏神社「大歳神社」からスタートしました。大歳神社にも歴史を知らしめる「力量石」や 「神生石(みあれいし)」などの文化財があります。これらは近郊では見られない、社のない時代日本民族は山や岩などを信仰の対象としていた時代のものと言われ、現在も大切に信仰としてまた文化財の一つとして保存されており、児童たちは驚きの顔で説明を聞きノートにしっかり書きとっていました。
それから黒川地区に入り「大膳橋(現湯舟橋)」は、関ケ原の合戦後の慶長8年(1603年)、亀居城築城時に物資輸送のため、ここに福島正則の家老 木造大膳が架けたといわれ、村人たちが喜んで「大膳橋」そして川も「大膳川」と呼ばれるようになりました。
ここから「亀居城跡」へと足取り軽く歩き、およそ400年前に築かれた城の跡には多くの貴重な史跡が残されています。
井戸2ヵ所跡・刻印・矢穴跡・天守台石垣跡など、また本丸に立てば「三県一望」として広島湾の西南部を一望でき、眼下には企業城下町として活発な経済活動をしている工場群を見ることができます。
また、亀居城跡から南に下って、「西念寺(長州の役砲弾跡)」~小方の町並み(和田家の長屋門~芭蕉の150回忌記念句碑・けごろもの碑)」などの貴重な歴史をしっかり学習し、元気な声を快晴の空高く響かせながら、疲れを見せず2日目を終え、徒歩で玖波小学校まで帰って行きました。

屋外学習3日目 12月13日(水)午前9:15~12:00

最終日は、最後の難関である御園地区の「苦の坂峠」口に、スクールバス2台で6年生27名、校長先生、教職員数(3名)が集まりました。
この頂上において、慶応2年6月14日(1866年)早朝、幕府軍1000の兵に対し、長州遊撃隊など250の少数精鋭部隊が戦闘を開始し、2時間余の攻防の末、幕府軍を小方に追い落としまた。「長州の役苦の坂攻防の地」として、当時の姿をとどめています。その後江戸幕府は朝廷に政治を返上、近代日本の夜明けを迎えることになった貴重な古戦場跡です。
苦の坂峠から西に下り、木野二丁目に入ると、伊都岐嶋姫命伝説の「榺池神社・汐湧石」があり、鎮守の森に囲まれ、約1400年前の推古天皇の時代にタイムスリップすることのできる静寂さを感じます。この伊都岐嶋姫命が九州大宰府から現在の苦の坂に差し掛かり、重く感じた「榺・縦糸のロール」を池に投げ落とし身を軽くして厳島に渡ったという伝説から「苦の坂峠」と呼ばれることとなりました。また、1年で一番満潮の高い旧暦6月17日神社の基礎となっている「汐湧石」から汐が吹き出るといわれています。

そこからしばらく歩くと、古老たちが長く語り継いだ「太閤振舞い井戸」があり、きれいな湧水が出ています。           木野一丁目(中津原)は、約400年前の慶長年間に、村人が住めるよう「小林の三角和久」、そして約100mの城の石垣のごとく頑丈な「巻き石」を築き、川の流れに沿った円形の中州を新田開発として成し遂げ、村人が住めるようになったといわれています。そして町屋に入ると、江戸時代京の都から多くの朝廷の要人、各藩の大名による参勤交代で西国街道は賑わい、芸防の境を流れる小瀬川の水嵩が高くなると渡しの舟が出ないため、要人たちが休息した庄屋格の見廻り役の児玉家に立ち寄り休息したといわれ、今でも地区の人たちにより親しみを持って「本陣門・開かずの門」と呼ばれています。 

そして小瀬川の中継地として栄えた、大正・昭和初期の町並みが残る木野一丁目「格子戸通り」を学習して、児童の大いなる希望であった「西国街道大竹路」を完全踏破しました。
たくさんの歴史の話や文化財を記録して、スクールバス2台に分乗し、大竹市歴史研究会の畠中会長、河野副会長に一生懸命手を振りながら、総合学習を終え、玖波小学校に向かって行きました。