山陽道は、かつて大和朝廷と九州の大宰府を結ぶ大路でした。
江戸時代からは、格落ちして西国路となり、広島藩では「西国街道」と呼びました。
この街道の難所である大野村から四十八坂を越えると、鳴川あたりで少し平地になります。
玖波村との境の橋を渡るとまた山路となり、その急な坂道には土が流れないように石畳が敷き詰められています。
表の平らな石を集めて、タイル状にうまくはめ込んでいる石畳は、22mにわたっており、今もその姿を残しています。
西国街道は道幅が二間半(4.5m)と定められていますが、この辺りでは一間半(2.7m)しかありません。
石畳を登ると鉾の峠となり、一里塚が築かれ、塚松が植えられています。
山頂に作られた駕籠立場(休憩所)からの眺めは、瀬戸内海に浮かぶ厳島を目の前にできるすばらしいものでした。
ここから峠を下ると、その昔に外航船を作った「唐船浜」があり、さらに馬だめし峠を越えれば、玖波の宿場町へと入ります。