現在、一般国道186号を市街地から上流に向かって約20km行った辺りに、広島県の名勝「弥栄峡」にたどり着きます。
ここには「川真珠貝広場キャンプ場」、「弥栄オートキャンプ場」が整備され、夏場になると多くの人たちが訪れ賑わいます。
そのわずか上流域が直線道路になっていて「旧海軍下ヶ原避難飛行場跡」になります。
太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)、戦局は急転し米国をはじめ連合国軍は、南から勢いを増し、B29爆撃機が日本国内の都市の上空に連日のごとく現れ空爆を行っていました。
日本軍はこうした空襲に対応するため、「特別攻撃機」の避難飛行場を各地に急ぎ計画しました。
市域では栗谷村大栗林字下ヶ原(現栗谷町大栗林)の小瀬川に沿ったなだらか地域に避難飛行場の建設が突貫的に開始され、地区の人たちは、周辺の山の麓に仮の住まいを建て、強制的に避難させられました。
飛行場は、兵舎部分を含めて12万7千㎡、滑走路は690mで、各所に軍用防空壕も建設されましたが、ほぼ完成したところで敗戦となりました。そのため「神風(通称・かみかぜ)特別攻撃隊」の異名をとった神風特別攻撃機が着陸することはありませんでした。
翌年の春、敗戦後の混乱の中で、連合国軍のオーストラリア兵が上官大尉を先頭に8名が占領軍として派遣されてきました。
駐屯は昭和22年4月までの約2年間続き、飛行場の跡地は呉進駐基地へ食糧を供給するため、栗谷地域の約100名に及ぶ男女が雇われ、ブルドーザーにより飛行場は掘り返され、滑走路はもちろん周辺の山も開墾され、私有地の境界もわからなくなり、それまであった多くの「栗林」も姿を消しました。
ここにできた広大な畑は、日本人の手によりトマトやジャガイモが耕作され、連合国軍の食料としてトラックで渡ノ瀬村から玖波町に下り、呉進駐基地に向かって運ばれました。
そのため、栗の産地「栗谷村」は進駐した連合国軍の破壊により立ち直ることができず、平地化されたままでその後返還されました。
変わり果てた地域に、この地区の人々は、私有地返還問題で長く苦しみました。