鼻操南蛮樋

江戸時代後期、享和元年(1801年)の小瀬川の国境確定から、わずか3年後の享和三年から四年にかけて、推定ではありますが、現在の本町一丁目、通称「権現橋」辺りから、南に向かって小瀬川堤防までの直線道路を経て、栄町地区の旧堤防・通称「古土手」までを、川沿いから「沖新開」・「中新開」・「郷水」の三区間に分け、短期間に潮留堤を完成させました。

中新開を構築する際、潮止めのために現在の西栄二丁目(通称「大樋筋」)の鼻操川河口域に、「南蛮車」(ろくろ)を備えた樋門が作られ、「鼻操南蛮樋」と呼ばれるようになりました。

その後、天保3年(1832年)、広大な小島新開が完成しましたが、この樋門は、その後も活用されていたといいます。

当時は、この樋門の内側に、「鷹匠ノ池」と呼ばれる沼地があって、芦や蒲(水草)が生い茂り、サギや鴨など多くの鳥が生息していたため、鷹狩が盛んに行われていたと伝えられています。

近年、「南蛮樋保存会」の手により、樋門の整備復元・水車の配置と、大樋筋の用水路に鯉を放流するなど、市民の憩いの場としての環境整備が図られています。