写真を整理していたら懐かしい写真が出てきました。
この写真にある橋は、「会社橋」と呼ばれ、大竹市が工業都市となっていく歴史が秘められています。
大竹市域では中世後期から、小瀬川水系を中心に手すき和紙が盛んに行われていましが、明治に入り、機械化による西洋紙の生産が行われるようになり、伝統的な手漉き和紙は徐々に衰退し、昭和30年代初頭にはほぼ小瀬川流域から姿を消してしまいました。
明治39年5月「芸防抄紙(株)」が和木村瀬田に建設されました。その後、芸防抄紙(株)は合併を重ね、大正15年に「日本紙業(株)芸防工場」となり、市域からも多くの人が小瀬川を渡って通勤するようになりました。はっきりとした時期は分かりませんが、大正後期から昭和初頭にかけて芸防工場が従業員のために現在の元町二丁目と和木町瀬田の間に自ら架けたのが写真の橋です。この木橋は、正式名称は「潜水橋」ですが、大竹市域では「会社橋」と呼ばれていました。「沈下橋」でありながら一工夫された木橋で、小瀬川が洪水となった時も、ひ弱に見えるこの木橋は幾度となく耐え、従業者の通行を支えました。
川の長さは約100mに達していましたが、橋の幅員は1m余りであったと記憶しています。幾つもの木製の橋脚の上に約1mの横板を並べているものが、洪水時に水面が橋を超えると中央で橋に括りつけられたワイヤーが左右の岸に流れ着く仕組みになっていました。そして、流れが正常になると橋を管理する人たちによって橋脚に橋板の部分を載せるという、当時としては大変合理的な仕組みで、コンクリートによる沈下橋以前に考えられたものかと思います。
日本紙業芸防工場が大竹工場に平成5~6年に大竹工場に移転されましたが、芸防工場はそのままの姿で現在も残されています。昭和の終わりには木橋も役割を終え、この1枚の写真は今も当時の人々の懐かしい思い出となっていることでしょう。